きょうはこんな日でした 【ごまめのはぎしり】
1999.1.24(日)
きのうは横浜・野毛の「今福」で山脈の例会だった。新年会、『山脈』103号の合評会も兼ねていたので充実した。私の作品「妹」はあまり評判が良くなかった。妹を主体に書かねばいけないところを、どうしても"おれ"が強く出てしまう。小説も書いていたんだから、その辺は判ってもらわなくては困る、という筧槇二主幹の批評はごもっとも。最近、自分でも"おれが、おれが"が生活の中でも強く出てきたのを感じていたので、耳に痛かった。詩はほんとうに生活が出るから怖いですね。
○月刊詩誌『柵』146号
大阪府豊能郡能勢町 志賀英夫氏 発行
ご存知、大阪の大きな詩誌。同人は100名を越えているんでは、と想像しています。発行者の志賀英夫さん始め、かなりの数の同人とは顔見知りで、愛着のある詩誌。
「現代詩展望 戦後詩史の構築と方法」 中村不二夫氏
中村さんのエッセイはいつも楽しみに拝見している。神奈川近代文学館の収蔵コレクション展「近藤東文庫」を中心に、近藤東と時代について論じている。中に「産業報国」が「産業報告」となっていて、変換ミスがあるのは愛嬌だが戦後世代が戦争責任を論ずる大切さを示していて、納得。
神奈川近代文学館が行おうとしている、寄贈本の選択理由について心配しているが判る気がする。「日本近代文学大事典」、「文芸年鑑」の収録者の本、新人賞を受けの本は残すが、それ以外は捨てちゃう、と言っているそうだ。私は今年から「文芸年鑑」に載るから、まあいいか、という訳にはいかないのである。そういう基準で本を選ぶとしたら、文学館の司書の能力を疑ってしまう。そういう基準で捨てる、捨てないを決めるんだったら誰にでもできる。司書の資格内容というのはまったく知らないが、少なくともそんな単純な資格ではないと思っている。本を選ぶ能力があるから司書として採用されているんではなかろうか。職務怠慢と言ったら、言いすぎだろうか。
「朝・少年と」 大貫裕司氏
雨戸を開けたら中学生が通りかかり、おはようと声をかけたらペコンと頭を下げた。
知らない子と
出合いがしらの朝のふれあいは
なにかいいことありそうな (最終連)
これはこれで大貫さんのお人柄が出ていてほほえましくなるんだが、むしろ私はこれが詩になることに驚いた。想像するに、いつもは声を掛けても知らん顔して行ってしまう中学生が多いんではなかろうか。それがこの朝に限っては反応があった、、、、。"なにかいいことありそう"に思えてくる。
私にとっての中学生時代は、田舎だったからかもしれないが、こちらから挨拶するように躾られた。それが大貫さんがお住まいの厚木では違うらしい。
まあ、考えてみれば、今私が住んでいるこの田舎町でもそうだな。大人でも挨拶が返ってこない連中がいっぱいいるもんな。中学生が挨拶できないのも当然だわな。だから大貫さんがうれしくなって詩にするというのも理解できるな。
でも本当は違うぞ。そんなことが詩になるような社会って、どこか違ってきているんだろうな。あーあ、昔は良かった。先生もいい人がいっぱいいたし、中学生も素直だった、、、、これを言い出すとは、もう、トシですね。
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