きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
chibori park
ローマ・チボリ公園 '99夏




1999.10.16(土)

 『詩と思想』の編集部から半年の連載をやらないか、と依頼が来た。来年3月号から7月号までの6回、各1200字。内容は「インターネット時評」。うーん、と迷った。インターネットに首を突っ込んだのはこの3年ほど。自分でホームページを始めて、やっと10カ月。そんなに詳しいわけではないと自負(^^;; しているからね。
 原稿料が無いのは、まあ、やむを得ないとしても、一応商業誌だし、それなりの調査も必要。読者は金を払って『詩と思想』を読んでいるわけだから、少なくとも私の担当した頁には金を払った価値があると思われないと、もの書きとしては失格。うーん、大丈夫かな?
 でもなあ、編集長の森田進さん直筆の添え書きもあるし、森田さんを好きだし、社長の加藤幾恵さんとは一緒に酒呑む仲間だし、断わるのは気が引けるなあ、というわけでOKを出しちゃいました。
 でも、ちょっと待てよ、「編集委員会全会一致で」とあるけど、よくよく見ると編集委員会って、全員知り合いじゃないですか! なんかハメられた気もするけど、ここは素直に見込まれて(^^;; と理解しましょう。ほんと、おっちょこちょいなんだから、と自分でも思いますけどね。


詩誌『よこはま野火』37号
   yokohama nobi 37
  横浜市保土ケ谷区 森下久枝氏 発行

 今号は特集として「飯田美世さんの白寿を祝って」を組んでいます。白寿って99歳のことですよ!おそらく100歳になろうとする同人がいるのは、世の中広いと言ってもここだけでしょうね。

 かたくりの花/飯田美世

かたくりの花が しきりに私をよぶ
心もそぞろなのに 降りやまぬ雨
漸く 清瀬の雑木林に かけつける
いそいそと 人気のない木もれ日の中へ
わけ入って みたものは
もはや すがれた葉っぱ許り
花の一つも残っていぬかと
未練げに うろうろする悲しさ

----何を探してらっしゃるの
林の入口に ふと人影がさして涼しい声
まるで 野外劇の役者のように
いい工合に現われた若い人
----かたくりの花を----
----あら 丁度花の済んだ所ですわ
もう一寸早くいらっしゃればよかった

その人はこの辺りに咲く花の話をしてくれた
ひとりしずか ふたりしずか 踊り子草
名もしらぬ 思わぬ出会いの人と
花の話許りして----
雑木林のやさしさ

 ものごとを達観している中にも、若さを失っていない作品だと思います。そして、この100年で使われてきた言葉も変わったんだなあ、と思います。例えば「工合」。「具合」の間違いかと思って辞書で調べたら、ちゃんとありました。間違いではありません。使う頻度が少なくなってしまったんですね。
 「許り」も最初は戸惑いましたが、前後の関係ですぐに読めました。確かに明治・大正の頃の作品では多く使われていた記憶があります。そんな言葉も含めて、この作品には価値があります。仮に私がそんな字ばかりを集めて詩を作っても、底が割れるでしょう。しかし飯田さんの場合は、それが血肉ですから、しっかり根付いています。大事にしていきたい作品だと思いました。


詩誌『叢生』104号
   gyosei 104
  大阪府豊中市 島田陽子氏 発行

 島/江口 節

丸みを帯びた島影が 銀白色に輝いて
四囲を波に洗われていた
月が 出ている

島は島であることに閉ざされ
くりかえし満ちてきて 見る者を包む
凪いだうちうみで いくつも
島が 眠っている

内部が とくとくとあふれてきて
夜明け
ゆっくりと目覚め 語り始める
島と島と 向き合って

ひとりでいることが そのように熟れて
そのようにわたしも 語ることができれば

際限もなく削られ さらけだされる場を離れ
ひとりにおいて 満たされたかった
わたしは 島になりたかった

だが 島といっても
荒い外洋のまんなかで 小さな岩場ほどの
それでも島と言われてしまう人も
いるのだった

波は内側を満たさず
外側を愛撫せず
覆い隠すばかりに 強く打ち付ける
漂う島になることもできない人が
いるのだった

顔をそむければ ますます
その人を見つめることになるのだった

 さすがに終連の終わり方は見事ですね。静かな序章から激しい中盤、そして終連と構成もうまくいっていると思います。「それでも島と言われてしまう人」には思わず熱くなるものを感じます。
 穏やかな瀬戸内の島々、外洋の孤島を対比させて、それを自己に同化させていく、オーソドックスではあります。しかし終連によってそのオーソドックスさがすべて生かされるという、職人のような作品ですね。


太原千佳子氏詩集『森への挨拶』
   mori eno aisatu
  1999.9.24 詩学社刊 2200円+税

 下弦の月

夜の電話で人は
自分が見取った義父を褒めた
最後まで聡明で
自分で何でもやろうと努力した人だと

いま 私の眼の前には
寝間着を濡らして
着替えを待っている父がいる
私はこの惚けた父を
どう褒めよう
過ぎてからなら
たやすいかもしれないその言葉を
私はいま欲しい

空に夜更けの半月
天空へ小さな受皿を捧げて
浮かんでいる

 なんとも言いようのない悲しさに被われる作品です。誰にも向けられない憤りも伝わってきます。それを下弦の月へ持っていくことで、作者の気持ちが少しは安らいでいるのではないでしょうか。
 他の作品で、作者は自己を相当抑えています。この作品で初めて「過ぎてからなら/たやすいかもしれないその言葉を/私はいま欲しい」と自分の感情を露わにしています。そこに私は注目しました。ナマと言えばナマなんですが、作者の人間らしい根底を見た思いで取り上げてみました。
 しかし、それにしても終連への持って行き方は見事です。詩になり難い現状を見事に昇華させていると思いました。



 
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