きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
chibori park
ローマ・チボリ公園 '99夏




1999.10.20(水)

 藤本義一さんが亡くなりました。大阪の作家と同姓同名ですが、別人です。このHPでも何度か紹介しています「東京・横浜ワインサロン」の主催者です。9/5のサロンでお会いしたのが最後になりました。ご本人はガンを承知していて、もう一度ワインサロンをやりたいとおっしゃっていました。残念です。
 元サントリー宣伝部、ワイン相談室長。「洋酒伝来」「洋酒夜話」「とっておきワインと洋酒の物語」などの著書があるほか、「中年ベ平連」を組織するなどユニークな活動でも知られています。
 明日、渋谷でお通夜がありますので行ってきます。私はこの3年ほどの知り合いですが、生涯おつき合いするつもりでいました。合掌。


総合文芸同人誌『蠻』119号
   ban 119
  埼玉県所沢市 秦健一郎氏 発行

 このHPでは初めての紹介になります。きょうは亡くなった人の話題ばかりで恐縮ですが、以前は、昨年8月に亡くなった前主宰者・早川琢氏よりいただいていました。早川さんが亡くなってからは、北海道旭川市の東みゆきさんが引き続き送ってくれています。
 以前から注目していましたが、藤倉一郎氏が「医療随想」というエッセイを連載しています。今号は「科学としての医学」。私が傍線をつけた部分を列挙してみます。

 「科学は善悪の認識に中立で、没価値の立場にあり、自分では善悪を判断しようとしないのである。もともと科学は哲学も倫理も宗教も無視して出発しておりながら、結果として問題が生じてくると、それを哲学や倫理や宗教に押しつけてしまうという自己欺瞞がある。」(科学とはなにか

 「もともと医学の動機も、医学の目標も病人の救済にあり、医学の対象が病気に悩む心をもつ人間である以上、科学を越えた人間性が問題にされなければならない。科学としての医学は医学の一分野でしかないのである。」
 「科学としての医学は、身体を専門別に分断した部分的知識であるが、人間の特徴は身体の細分化を許さず、その全体性にこそ意味がある。」
 「医学は本来個人の生活の質を高めるために行うものであって、他の人に何らかの危害を与えてはならない。移植医療は将来、必ず過去の誤った医療として評価されるようになると思うが、わが国も結局は、世界の流行に乗ってしまったのはまことに残念なことである。」(科学としての医学

 「人間として生きることは健康だけに意味があるのではない。一定の限界のなかで自分の生命を燃焼させることである。
 生きうるものを生かすだけでなしに、死が避けられない場合、安らかな死を迎えさせるのも医学である。近代医学は延命のみに奔走してきた。死は敗北であると信じてきた。死は生の否定でなく生を結実させ、生に威厳をあたえる自然の贈り物である。」(健康、病気、死

 断片を転載することで誤解を招く恐れもありますが、全編を引用するわけにはいきません。しかし誤解される文章ではないと私は信じます。
 藤倉さんはお医者さんのようです。医師の知り合いは少ないので、なんとも言えませんが、なかなかこういうご意見をもつ方は多くはないのでは、と思います。特に移植医療では、こうはっきり言う医師は少ないだろうと想像します。私はドナー登録はしません。私自身、他人さまの臓器をいただいてまで生きる必要はないと思っています。
 「与えられた生を生きよ」で、充分です。


詩誌『都大路』26号
   miyako oji 26
  京都市伏見区 末川 茂氏 発行

 こちらも東みゆきさんからいただきました。

 野宿/東 みゆき

傷を負って苦しい目に遭うと
何故か 私の魂(こころ)は
あなたのところへ帰りたがる

あなたのところへ行けば
飢えた者には ひとかけらのパンが
渇いた者には 一杯の水が
疲れた者には 干し草のベットが
与えられることを知っているからだ

でも----
もう私は行ってはいけないのかも知れない
私は宿賃も払えず
その代わりになる物も
花束すら持ってはいない
美しい季節は とうに過ぎ去ってしまった

そして----
もう あなたは家に鍵をかけて
どこかへ行ってしまうのかも知れず
あるいは ピシャリと戸を閉ざし
もう そんな慈善はしないのかも知れない

今夜は野宿にしよう
傷も----何とかなるだろう
野原に仰向けになって寝転び
夜空を眺めていると
満天の星が体中に世界中に
涙のように降り注いでくる

遠くには あなたの家の灯が
明るく光っているのが見えて
誰か客人が来ているのかも知れない
にぎやかな笑い声が聞こえてくる

夜露をしのぎながら
私は一人眠りに入る
夏草の香りと虫の鳴き声が聞こえる野で----

 「あなた」を神として読んでみました。ちょっと無理があるところもありますが、そう読んだ方が素直に私には入ってきました。私は無神論です。しかし、神、あるいは神のような存在はあってほしいと願っています。そういう存在に対しての詩として読むといいと思います。
 大きな、神のような存在と自分。この対比で考えると、東さんの率直さが理解できます。端的な部分が「満天の星が体中に世界中に/涙のように降り注いでくる」というフレーズでしょう。だからこの詩はちっとも淋しくない。相手が自分と等身大ではなく、大きな存在だから、淋しいという小さな感情が消されているのだと思います。



 
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