きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
ローマ・チボリ公園 '99夏 |
1999.10.29(金)
久しぶりに朝5時に起きて会社に行ったので、眠くてしょうがない。残業するのは別に苦ではないけど、早出するというのはツライですね。久しぶりの早起きだから、朝日を拝みながら出勤、なんて思ったけど、外は真っ暗。暑い暑いと言っていても、太陽は晩秋通りにしか出てくれないんです、がっかり。
○詩誌『掌』119号
横浜市青葉区 志崎 純氏 発行
始末たち/福原恒雄
あきが 近いなと
ぼくが
あおいばかりの夏の
空を
見上げていたところに
湧いたように
始末たちが
陸続と寄ってきて
過去に生きるのは
もう止めな
と熱気むんむんの
きな臭いつち色の息
ぼくは 現在 空を見上げて
と よこ向きかけた顔を さらに追いかけて
真正面から
過去にこだわって
現在を生きるな
と科学てきなよじたててしつこい
言われなくても 最近のまいにちは
科学に埋められたような
風とたべものとトイレと君たちと
やはり
いつかの八月とちがうあつさだと
ぼくは
科学てきなすじになるのを恥じながら
始末たちに
ぼくには
過去があるから
あおくない夏の空はほしくないと
始末たちより臭い
汗も出ない火傷あと隠した背を向ける
4月に118号を紹介したときも福原さんの作品だったので、今回は避けようと思ったんですが、だめですね、どうしても福原さんの作品になってしまう。『掌』の皆さん、ごめんなさい。
しかしまあ、なんという詩を書いてるか、と思いますよ。「始末」ですって。どう解釈していいのか判らん。でも、なんとなく判る気がするから不思議です。そのうちに「始末」でなければならないように思えてきます。どうも「科学てき」と「始末」とは同類項のようです。
そうすると「過去に生きるのは/もう止めな」とか「過去にこだわって/現在を生きるな」などと言う「始末」は、科学を盾にする何者かではないかと推測できます。あっ、それって俺のこと? いつも科学、科学って言ってるのは俺ではないか!
まあ、こういうのを買かぶりと言いまして、決して私なんぞのことを書くわけがありません(^^;;
でも考えようによっては、私も含めた科学的≠ノ理論武装≠オた連中のことかもしれませんね。ほら、なんとか評論家とか…。
こういう福原さんのような人を詩人と言うのだろうな、と思います。評論は嫌いみたいだし、科学≠ニは一歩距離をおいているし、表現は散文で書けるような代物ではないし…。
福原さんの詩は、20歳そこそこの頃から好きで、ずっと追いかけてきたように思います。追いつくわけがないけど、今後もひとつの目標にしていきます。
○平野敏氏詩集『残月黙詩録』
埼玉県入間市 頒価 2000円
失礼な言い方になるかもしれませんが、古武士を彷彿とさせるような詩集です。「義経幻像」「そろべく候」などの作品は武家社会を、「歌右衛門」「近松ベクトル」などは歌舞伎を扱っていて、他にはなかなか無い詩集です。
火見櫓からも見えなくなった朝がある
合点(がってん)消えた朝を追って佐助は走る
陽を探し求めて毛鉤を担いで走る都々逸
奥多摩の地平線は天上だった
ダム底の村に来ない朝
透明度高い重い水をレンズにしても光の朝は届かない
超然と死んだ朝もこの国にはある
不動明王(みょうおう)の忿怒の鎮まり待つこと長く
歴史は不毛のままにすすみ
円空仏のほほえみの夜明けは遠退いたのか
消えた朝にも拝礼する (「朝の意匠」最終連)
硬質なイメージを受けますが、語り口は良質です。時間と空間を思いのままに表現していると思います。それも独り善がりにならず、読者をきちんと意識して、しかしおもねず、言うべきことははっきり言う、というふうに捉えました。
もちろん作品として拝見しましたが、なんと言いますか、じっと見つめられているような気がします。おまえはきちんと生きているか、恥ずかしい振るまいをしていないか、そんなふうにこの詩集から見られているように思います。嫌な思いはありません。むしろあたたかく見つめられているといった感じです。不思議な詩集です。
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