きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
ローマ・チボリ公園 '99夏 |
1999.10.31(日)
『山脈』105号の編集会議を、横須賀の筧主幹宅で行いました。自分自身の原稿はどうにか間に合って、ホッとして、気が大きくなって(^^;
編集会議に臨むことができました。
中腰になって指示しているのが主幹です。こういう場面は至って真面目。やっぱり、いい雑誌を作りたいもんね。
で、終われば、これ。これが楽しみなんです。筧夫人の手料理に、応援の由利夫人のオムレツもあって、もう最高です。今夜の酒は八海山を主として、ビール、ドイツワインもあって、酔いました。
写真左が筧主幹、真ん中が久々登場の私です。顔が真っ赤ですね。悪酔いしていない証拠です。
○鬼の会会報『鬼』330号
奈良県奈良市 中村光行氏 発行
今号もおもしろい話が多く、どれを紹介したらいいか迷います。やっぱり、この話ですかね。「鬼のしきたり(19)」からです。
綱引きはセックス
一月十五日は小正月だが、多くの地方で綱引き神事が行われる。豊作か凶作かを占うのだ。この綱引きは意味深長で、ムカシは男対女で引き合った。男女が向かい合って、腰を使いながら声をあげる。これは、セックスの意味があるのだ。農民は天を男性、大地を女性と見立てた。大地は子宮、雨は精液。つまり、雨が大地に染み込んで作物が育つことになる。そして女が勝つと決まっているのだ。
なるほど。そういえば昔見た映画で「世界残酷物語」というのがあって、大地を孕ませるシーンがありました。アフリカの話でしたから、狩猟民族でも同じことなんでしょうね。やはり大地が母体、大地なければ生物は生きられない、ということでしょうか。
そう考えると、昨今の環境破戒は言後同断です。科学の名で環境を汚染してきた現代人は、昔の人たちに遥かに及ばない人種だということになりそうです。セックスも、そう。腰を使いながら綱引きをする男女の、なんと大らかなことか。ミニスカートでチマチマと男に色目を使う女子高生の矮小さよ、と言いたくなります。うーん、矮小と書かずに猥小と書いてやりたい(^^;;
○日本現代詩文庫
第二期(18)『直原弘道詩集』
1999.11.10 土曜美術社出版販売刊 1400円+税
自分にとっては高額で、しかもまったく自主的にカンパをしたというのは、阪神淡路大震災の時だけでした。関西には詩人の友人も多いし、なにより関西の人たちの苦しみが身近に感じられたからです。同情という気持ちではなく、自分でできる最善の方法は何かを考えた結果でした。ボランティアという選択肢もありましたが、現実には無理でしたし、無理をして行動しても碌な結果にならないと思ったからです。ですから、この詩集の中では次の作品に最も共感しました。
駅前の喫茶店
何か月もかけて
まるで新築のように改修した
子供たち孫たちに囲まれ祝ってもらった
つい半年ばかり前のことだった
それが数秒でふっとんだ
駆け付けた長男たちが
崩れた壁の割れ目からひっぱりだして
運よく怪我もなかった老夫婦を
郊外の長女の許に送り込んだ
ばあさんは寝込んでしまったが
八十歳になるじいさんは
もう帰る家もなくなったのに
何の屈託もないようだった
それが突然
「そろそろ家に帰ろうか」といいだして
長女をぎょっとさせた
衝撃が大きすぎて
記憶が混濁したままなのか
それとも「惚け」のはじまりか
次の朝目を離した隙に居なくなった
何も云わずに一人で出ていった
長女が血相かえて駅の改札口まで走ったが
そんな老人は通らなかったという
さて 不案内な土地のどこを彷徨っているのか
思案する目に映ったのが駅前の喫茶店
さては と 思い出した
朝はいつも気に入りの喫茶店で時間を過ごす
神戸でのじいさんの日課
やはり案ずるまでもなかった
大きな声と身振り手振りで
バーテンや相客たちを相手にして
一席ぶっていた爺さんが
けろりとして
「まあ座れや」というのであった
もし君が いつの日か
駅前の気の利いた喫茶店を見つけて
朝の静かな時間に立ち寄ることがあったら
すでに常連になっているはずのじいさんの
空しさを押し隠しての熱弁に
耳をかたむけてやってくれないか
最終連で思わず熱いものがこみ上げてきました。怒りでもない、憤りでもない「空しさ」という言葉に、余計に「じいさん」の、そして作者の思いを感じます。
人間がいかに小さいか、そんな小さな人間が些細なことでチマチマやっていることが何と馬鹿らしいことか、そんなことも考えさせられました。いい詩集です。
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