きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
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新井克彦画「モンガラカワハギ」




1999.11.22(月)

 先週、阿蘇豊さんたちにお会いした時、阿蘇さんたちの詩誌『布』の10号記念会「なんとなく飲み会」というのがあると伺いましたので、押しかけて行きました。たった4人しか同人がいないのに、なんと20名以上が集まって、盛会でした。下の写真は『布』のメンバーを中心に撮ったものです。遠くから撮ったのでピントが甘くなってゴメンナサイ、です。ん?そのほうがいいって(^^;;
  991122
 『布』のメンバーには、私が個人的にお会いしたいと思っていた先田督裕さんもいらっしゃって、お話しすることができました。先田さんは2年に渡って「詩学」でインターネット論考を連載している方です。私も来年から6回の連載で同じようなものを「詩と思想」誌に書くことになっています。先輩の意見を聞いておこうと思った次第です。
 収穫はたくさんありました。やはり2年も続けていると風格が出てきますね。彼との違いをどうやって出すか、苦慮しそうです。まあ、なんとかなるでしょう(^^)
 きょうは、会場でいただいた2誌を紹介します。


個人詩誌『犯』17号
   han 17
  埼玉県浦和市 山岡遊氏 発行

 現実の生活と、美意識とが混練されて出てくる詩作品が多く、どこからそんなふうに感じるのかなぁ、と思っていたら、「マイク・タイソン」というエッセイに出会いました。

 よくトレーナーはパンチを放つ時、ボクサーに「腰を使え」と言うそうである。それはパンチ力に一番大切なものが『腰のひねり』であるからだ。(中略)それでは言語にとって、いや詩を書くものにとって『腰』とはなんだろう。生活ではないだろうか。生活をひねることの運動作用がより重い言語パンチを生む。生活をひねらないで頭ばかりひねっている人間のパンチ力は弱い。鋭い、と錯覚するときがあるかもしれないが、パンチ力は鋭さではない、重さなの だ。後でじっくり効いてくる詩を私は好む。(「マイク・タイソン」部分)

 この指摘は鋭いですね。いやいや、山岡さんの言葉を借りれば「重い」と言うべきでしょうか。こういう見方があって初めて、山岡さんの感覚が表現されるのだと理解できました。

 この夏
 海辺の5万人ロック・フェスティバル
 ステージからダイブして救急車で運ばれたのは僕です
 意味はなかった
 それでも ググーッと
 どこかへ運ばれている感覚
 なんだこれは アトランティス

 そんなことより
 今、きみの中にはどんな時間が流れていますか
 きみは僕の内科医だった
 あの日死ぬほど歯が痛むのにキスをしてくれてありがとう
 そんな時だけです
 ヤツが ふう、って消えるのは

 20年ぶりの葛西橋
 感傷の目論見 せせら笑うぬけるような冬の空に
 あの日のきみの声が聴こえる
 −第一のコース、山岡君、日本!−
 飛び込めばアスファルト
 血塗れの回遊魚      (「葛西」第4連〜終連)

 アスファルトにダイブしたのは、事実かどうか知りません。そんなことはどうでもいいことで、この日常感覚と「重さ」に惹かれます。決して日常を軽んじるわけではないけど、日常を変える、あるいはひっくり返そうという表現は、読んでいて心地よくさえなりました。


詩誌『木偶』40号
   deku 40
  東京都小金井市 増田幸太郎氏 編集

 久しぶりにお会いした増田さんよりいただきました。横浜で二度ほどお会いしていますが、増田さんも私のことを覚えていてくれました。ありがたいことです。

 榛東村にて ---- 富沢智に/中上哲夫

   わたくしがいるのは 自分が
   立とうと決めた どこかにだ。
   ----ローソン・イナダ

だれかからじっと見つめられている気がして
目を覚ました
すると
窓から山がのぞいていたよ
朝の声に
野に出てみると
ひばりの声が空の深みからさかんに落ちてきて
(姿は見えない)
たんぽぽが地に黄色い端切れを一面に敷きつめ
大気が大量の花粉を吐き出し
すぎなが地中の闇に毛根をくもの巣のようにはりめぐらせ
世はすべてこともなし?
地面に落ちたたんぽぽの綿毛のように
きみはこのやぶ蚊と山かかしの土地を選んだんだな
風に舞う種子がどこにも着地しなかったとしたら
かれの運命はどうなってしまうんだろうね
ひとたび根をひき抜かれてしまうと
新しい土地を見つけるのはとてもむつかしいことなんだよ
(ケルアック家のように)
淀川のほとりに産み落とされてより
門司、東京、横浜、新潟、千葉、相模原と流木のように漂い流れてきたので
おいらは日々旅をしているような気分さ
どこにどうやって住むかが問題だ
とゲーリー・スナイダーはいったけれども
そうかもしれないね
昨夜は饒舌の穴にころげ落ちてしまったけれども
おいらがいいたかったのは
こういうことさ
みんな同じような詩を書いていて
おもしろくもなんともないよ
詩は猫のように気まぐれで無定形なものかもしれないが
とにかく
詩を再定義したいのだ
もう槍をかかえて風車に突っ込んでいこうなんて気はとうの昔に無くなってしまって
気がつけば
老いぼれの駄馬だよ
あとは新世紀の方へふわふわと胞子のように漂っていくだけさ

 情景は、おそらく榛東村の富沢智さんが館長をしている「榛名まほろば・現代詩資料館」で講演をなさるために、その前夜、資料館付属の宿泊施設に泊まって、次の日の朝のことだと思います。今年の5月のことでしょう。私も行ったときのことですね。交通渋滞で遅刻して、中上さんの講演は聞けませんでしたが、奥さんの佐野のりこさんの朗読には間に合いました。
 中上さんのような大詩人の作品をどうのこうの言う気はまったくありませんから、ここは紹介だけに留めておきます。しかし、なんか気弱になっているなぁ、というふうにも読み取れるので気がかりです。たまにはご一緒させてもらって呑みたいものです。



 
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