きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
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新井克彦画「モンガラカワハギ」




1999.11.23(火)

 とうとう私の書斎にもストーブが入ってしまいました。今年は暖かいので、11月いっぱいはストーブ無しでいこうと思いましたが、限界ですね。トシもトシなんだから(^^;; 無理をしないでヌクヌク過ごすことにします。


木津川昭夫氏詩集『セントエルモの火』
   st.elm no hi
  1999.11.25 土曜美術社出版販売刊 2000円+税

 旗の歌へる

オレはしばらく睡っていた
ああ オレは歴史の闇にねむらされていた
この暗闇は一体どこなんだ
沖縄の灼けただれた地下壕か
中国東北の厳冬の掘っ立て小屋か
オレはここに死者たちと一緒にいた筈だ
オレに <起きろ!> <起きろ!> と
うるさく叫んでいる者たちがいる

オレは昔軍国主義者に贋造されたんだ
赤い丸を書いて ファシストの太陽にされ
征服者の神話の女神の象徴にされた
オレの純白の身体と魂(こころ)は
人間の野望の血でけがされた
父や兄を戦争に狩出すための
ファシストの欺瞞の道具にされたのだ

オレは戦争の悲惨をつぶさに見た
オレは負傷者をくるんで励ましたり
戦死者と一緒に焼かれたりした
(それはオレの贖罪の証(あかし)だったろう)
だが オレはいまも侵略者の旗として
他国の民衆に憎まれおそれられている
オレはオレ自身の歴史を否定する
オレは再び釁(ちぬ)られた旗になりたくない

 初出は「火牛」41号、'99.9 とあります。当然、日の丸が国旗国歌法で国旗と法制化された時期と重なります。法制化された日の丸の側から書かれた作品で、その着想に驚きました。これは日の丸とは何かを身をもって体験した人でなければ書けない作品ではないでしょうか。戦後生まれの私などが仮に書いても、上滑りになるように思います。
 あとがきで木津川さんは、
 「二十世紀が去ろうとしている時、十五年戦争の死者への鎮魂や、反戦・反核を願って書いた作品を集めて、一冊の詩集を編むことが、私の久しい希望であった。これは少年時に戦争を体験し、その後も戦争体験を曳きずってきた、私の世代の生きた証(あかし)でもある。」
 と書いています。まさにその通りの詩集で、教えられることが多くありました。これはやはり体験した人たちの義務であるかもしれません。それは私たちの世代も同じことで、こんな日本にしてしまった、あるいはこんな地球にしてしまったことを、義務として書かねばならないように思います。


月刊詩誌『柵』156号
   saku 156
  大阪府能勢町 詩画工房・志賀英夫氏 発行

 踏絵/小城江壮智

マリア像を踏みつける心もちは
どうだったろう
いくらかはじらいながら女たちは
なんのかかわりもない板だからと
気にかけずにすんだろうか

どうだっていいじゃない?
が 返ってくるハタ
表彰のウタ カンゲキだったよ
は べつに……の若者
半世紀の風化はなんとなくの空気だ

だがなあ
おれひとり歌わないわけにはいかなかった
重いためいき……
そのうち
旗日にひらひら飾っていないと
肩身がせまくなる
回覧版に注文表がついて
軒並み買わされることになる

アカは
どこかおそろしい顛覆の兇徒
ヒコクミンもこわーいレッテル
みんなとおなじに
「歩調とれッ」でないといけない……共同体

デモクラシーはあてがいぶちだし
かってにばらばらではやりづらい
方っ端からナンバー振って
きっちり統制ってやつ
キミをあがめて
踏絵でしばる……

二度と思い出したくない道である

 偶然にも前出の『セントエレモの火』と同じ国旗国歌法に対する作品の紹介になってしまいました。詩集や詩誌が印刷された時期を考えると、ちょうどその時期だったんですね。詩人たちの問題意識の高さには敬服します。
 それなのに、この国がどんどん右傾化していくのはなぜなんでしょう。私の知り合いの詩人には国旗国歌法に賛成するという人は、ほとんどいません。詩人全員が反対しても、数の上ではたかが知れているということでしょうか。
 それについて中村不二夫さんが「詩と詩論の現在Y」でうまい解説をしています。

 こうした社会事象にすぐ対応することは、詩人としてあまり得策ではない。こうした場合、この国では何もせず抽象的な言語で、花鳥風月を歌ったりするほうが賞賛されてしまう。それが、日本の戦後現代詩の王道であって、このような詩を書くことは、ある意味で詩人としては敗北である、との烙印を押されかねない。それら周囲の批判を乗り越え、これだけの特集を組んだ「陽」の同人に敬意を表したい。(「詩誌から見た詩人の問題意識」部分)

 これは「陽」という同人誌が「再考 国歌について」という特集を組んだことへの中村さんの賞賛の言葉です。ここに述べられた中村さんの指摘は重要です。花鳥風月がそのように扱われた歴史に、私はやるせない思いをします。もう少し若かったころ、花鳥雨月への反発は実はそんな逃げ道として使われたことへのものでした。
 かと言って、以前のようにデモの群集の中に身を置くことは、今は考えていません。運動を支える僅かなカンパ、ホームページでのささやかな反論の方が自分には合っていると思うからです。それで私は自分のホームページのタイトルを「ごまめのはぎしり」とつけました。いつまでも「ごまめ」であり続けるかどうかは、判らないところですが…。



 
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