きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
mongara_kawahagi.gif
新井克彦画「モンガラカワハギ」




1999.12.5(日)

 同人誌『山脈』恒例の「冬の合宿」に行ってきました。12/4からの一泊で、伊豆高原に15名が集まりました。宿泊は、いつもなら民宿と相場が決まっているんですが、今回はある会社の保養施設。定員24名のところを我々だけで全館貸し切り、ゆったり、のんびり過ごしました。ベッドが4つある部屋に二人づつ、という感じでしたので余裕でしたよ。それでも宿泊料は6000円台、もちろん二食付きです。
 991205
 写真は城ケ崎海岸の吊り橋での光景です。暑くて、コートなんか必要ありませんでした。いつもは合宿で『山脈』の合評をやるんですが、今回はそれもなし。気楽な合宿でした。


秦恒平氏著『湖(うみ)の本』42
   umi no hon 42
  1999.11.25「湖(うみ)の本」版元刊 1900円

 日本ペンクラブ理事・電子メディア対応研究会座長の秦さんからいただきました。11/30にいただいていたのですが、予感があって、今日(この文章は11/7に書いています)まで読まないでいました。読みだしたら、他の仕事が手につかなくなるな、という予感です。当りました。18時から22時まで、一気に読みました。感動しています。
 秦さんは本来、私小説作家ではないのですが、この本の「丹波」という作品でご自身の生い立ちを語っています。小学校4年で丹波に戦争疎開したことが原点ですが、それ以前の幼児期に養子になったことが本当の原点であることを知りました。私自身も養子ではありませんが、伯父や継母に育てられた経験がありますので、秦さんの幼児期、少年期の心境は理解できるつもりで拝見しました。
 医学書では大手の出版社で管理職として勤め、東工大の教授まで勤めた人がなぜ小説を書くのか、正直、疑問でした。ペンクラブでご一緒に仕事をしている時も、穏やかで気配りのきいている人が、一面、正義感むき出しの頑固な面を持っているのは何故か、それらの疑問がいっぺんに溶けた思いです。作家や詩人になる人は、それなりの理由があるというのが定説で、私もそう思っています。秦さんはまさに作家になるべくしてなった人だと理解しました。
 ご夫人がお書きになった「姑」という作品も載っています。こちらも秦恒平という作家を理解する上で最良の手引書です。お姑さんの、京都弁の語り口で書かれています。それがお姑さんの存在感を圧倒的に読者に与えて、思わず胸が熱くなりました。
 こんなことをいくら私が書いても無意味な気がしています。できればこのHPをご覧になっている方にも読んでいただきたいものです。映画にもしたいような、日本の家族の生き様です。こんなにも私たちの国の家族は素晴らしかったんだと、つくづく思いました。私のHPにも秦さんのHPは「湖の本」としてリンクしてあります。そちらも見ていただいて、「湖の本」を秦さんに直接注文していただければ、こんなうれしいことはありません。


沼津の文化を語る会会報『沼声』234号
   shosei 234
  静岡県沼津市 望月良夫氏 発行

 12/8は58年目の開戦記念日。今号はそれにちなんだ随筆・小文がたくさん載っています。その中でも特に目を引くのは、望月良夫さんの「山本五十六の手紙」です。初出は『文藝春秋』9月号で、私もそれで読みました。今回、改めて拝見して、山本五十六とは人間味のある軍人だったんだなぁ、と思いました。
 山本五十六には愛人がいて、戦艦長門の艦長室に出入りし、手紙のやりとりも多々あったようです。その愛人としいう人は戦後、沼津に住んでいました。望月さんは1983年からその人と交流が始まり、1989年に亡くなるまで続いたそうです。そんな関係から山本五十六の手紙を手渡されてとのことで、今回『文藝春秋』と『沼声』に公表した次第、のようです。
 手渡された手紙は三通あり、そのうちの二通が載っていました。いわゆる恋文です。語りかける口調で、冗談めかしたモノ言いもあっておやっ?と思いました。なにせ帝国海軍元帥ですからね。そんな面があるなんて想像もしていませんでした。と言うか、軍隊そのものが判らないので、想像のしようもないんです。
 戦後、山本五十六は開戦に反対していたということで、美化されたきらいがあると思っていました。基本的にはその思いは消えていませんが、今回の随筆を拝見してちょっと見方が変わったようです。人間として見たらどうかと思うようになっています。新潟県長岡市には山本五十六記念館があるそうです。機会があったらそこに行ってみようと思います。



 
   [ トップページ ]  [ 12月の部屋へ戻る ]