きょうはこんな日でした【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラカワハギ」 |
1999.12.15(水)
別に私は「師」ではないけど、やっぱり12月というのは何かと気忙しいですね。ようやく、しなければならない、という仕事が終わってほっとしています。でも、これをアップできるのは2〜3日あとにな
るだろうなぁ。いただいた詩誌・詩集を紹介する前の、この前文を書いて、実際に本を読んでアップするまでに2〜3日かかるというパターンが、ここのところ続いています。
そんな訳で、紹介しなければならない、いただいた本が20冊ばかり溜まっています。あいつ、せっかく本を送ったのに何も言ってこない、とお叱りを受けそうですがご容赦ください。正月休みにはすべて読破する決意(^^;;
です。毎日一時間と決めている呑む時間を削れば、もう少し早くなるんでしょうが、こればかりは親が死んでもやめられませんのでご海容を…。
○小川英晴氏詩集『死者の書−復活−』
1999.11.11 銅林社刊 3800円
親しい叔父が死んだとき わたしは肉体の死
以降に起こる不可思議な現象を覗き見ようと
して 病室を去らずにいた 最後のその一瞬
について わたしはできるだけ正確に述べる
ことにしよう まず叔父は泣きくずれる叔母
の声に応えて ほんの一瞬我にかえると 叔
母の声の在りかを探した それから首をかし
げて困惑そうな表情をすると 突如叔父は目
を見開き強いひかりを発して その一瞬に息
絶えたのだ 叔母はその一瞬を知っていたか
のように 叔父の上に全身で泣きくずれた
死の一瞬のちにも鼓動は激しく波うち それ
からゆっくりと脈拍はひいていった なるほ
ど叔父は息をひきとるというよりも どこか
わたしたちの計り知れないところへと旅立っ
てゆく わたしにはそう思えてならなかった (「誰もが死者を呼びとめようとするのだが」部分)
全編、死・死者について書かれた詩集です。無神論者である私には普段考えもしない部分で、その分だけでも圧倒されました。もちろん肉親や親しい知人の死には何度も出会っています。しかしそれはあくまでも他人の死であって自分の死ではありません。そんなところから私は死を漠然ととらえているのだろうと思いますが、小川さんのこの詩集を拝見すると、小川さんご自身が自分の死について考えているように感じます。
紹介した作品も叔父の死でありながら、ご自分のこととして観察する科学者の目を意識します。ある意味では観念的ともとらえられるこの詩集の中で、冷静な目で書かれたこの作品に出会って、彼の視線の行くところが判った気がしました。それは自分の死についての意識の高さに由来するのだろうと思います。
別刷で中村不二夫さんが「<神なき近代>への啓示と預言の書」と題する解説を書いています。小川詩を理解する上で貴重なものと思いました。
○詩誌『青焔』50号記念号
東京都北区 島木綿子氏 発行
故・川村洋一さんが主宰なさっていた『青焔』をいただきました。川村さんとは1990年頃に出会って、1995年7月の日本詩人クラブ北海道大会では同室でした。二人部屋で、私が先に目覚めて、布団から半身を出してぼんやりしていたところ、急に川村さんが起き、布団の上に正座して「おはようございます」と深々と頭を下げられて驚いた記憶があります。川村さんが亡くなったのは、それからわずか3カ月後の11月9日のことでした。
分析学入門/川村洋一
ばけ学をやりながら潮流の速度を測っているうちに
氷の島はとけてしまった
狐のような顔をした男が独り月を眺めている
足もとから島は海中に沈んでいった
あぶない匂いの立ちこめる海面で
潮の流れについて男はまだ考え続けている
「川村洋一特集」として組まれた5編の作品のうちのひとつです。実は不勉強で、川村さんの作品に接した記憶がありません。今回初めて作品を拝見して驚いています。私の目指そうとしている分野を彼はすでにやっていたのですね。理学と文学の融合です。この作品は1977年4月発行の『PAN POESIE』復刊第4号のものと記載があります。私が理学と文学の融合を夢見て第一詩集を出したのも1977年10月でした。そんな馬鹿気たことを考える人はいないだろうと、いささかの自負とともに出版した記憶がありますが、その時すでに川村さんは「分析学入門」をお書きになっていたんですね。
この作品は分析学の盲点を見事にとらえています。化学において分析するということは、ある目的があって行うものです。現象を解明するために分析という手法を使います。手段にすぎないわけです。分析学とは、そのために手法を確立する学問にすぎません。そこからは何も生れてきません。学問のための学問に陥りやすい学問でもあるわけです。
亡くなった時も惜しいと思いましたが、改めてその思いを強くしています。ご冥福を祈ります。
○詩誌『青焔』51号
東京都北区 島木綿子氏 発行
50号とともにいただきました。1995年に出版された『幻想美術館』以来注目している詩人の作品を紹介します。
(そこで彼は通りをのぞきらがら
すてきな電話をかける) 波多野マリコ
両耳に音符を降らしている
憧れを腕の中に魔法の呪文を読む
殴り書きされた紙きれがつまったバックを持ち
袖口から蛾を発生させている
地下鉄のアーケードでは昔(いにしえ)の吟遊詩人が退屈な人間たちに悩まされている
----彼らは一流品をそろえて宣伝している?
わびしいおしゃべりが体内に入り恋人の骨盤で泳いでいる
夜の細胞のなかでは決して笑わず
自分の鼻を着陸の目的として使わせない
----午前零時 妻と子供達は怒りに狂っている
前提条件がすっぽり抜けて
カラカラ乾いたアイラヴユーが闊歩してゆく
どうも私は卑猥なものの見方をする癖があるようで、この作品もエロスと関連付けて読んでしまいましたが、多分、的を外していると思います。「自分の鼻を着陸の目的として使わせない」なんてフレーズを性行為ととって解釈すると、自分では判りやすくなりますが、違うでしょう。
このタイトルはおもしろいですね。散文的なタイトルを逆手にとっているようで、作者の「してやったり」という思いが伝わってきます。うーん、これも多分違うな。正直なところ、どこがどんな風にこの作品に惹かれるのか、自分でもうまく説明できません。全体の語りが興味を覚えるのかもしれません。個々のフレーズは難解なわけではないが、組み上がっていくと雰囲気は判るが、意図がつかみきれないと言ったらいいのかもしれませんね。そこに魅力を感じているんだと思います。
やっぱり性的にとらえた方がいいのかなぁ、などと堂々巡りをしています。変な紹介の仕方で申しわけなく思います。どなたかきちんと説明できる人、教えてくれ!
○谷口謙氏詩集『黎明』
1999.11.20 出版研刊 1800円
谷口さんは京都府にお住まいの医師で、今回の詩集は検視関係のものを集めた、とあとがきにあります。そのような詩集は例がなく、おもしろいと言っては語弊がありますが、貴重な詩集です。
少女
何とも
いたましい光景だった
一六歳少女の
急性アルコール中毒死
いっとき
他殺の線
輪姦の疑いも出て
假霊安室は熱気と緊張につつまれ−
親が見たら悲しむだろうな
ぼくには孫のような乙女
でぼちんのかわいい死顔
金いろの耳飾りが光って
結局
司法解剖送りになった
心臓血を採取しただけ
これがぼくの仕事
全30編のうちの1編です。谷口さんは検視専門医でなく、開業の傍らやむなく検視を引き受けたようです。1996年から始めたようですので、少なくとも年間10件の検視をしたことになります。検視しなければならないのは、ご承知のように医師の立会いがない死ですから、それだけ多くの変死があることに改めて驚かされます。
そんな中で、ご自分の仕事をきちんとこなして、なおかつ作品として纏めるという谷口さんの姿勢に頭の下がる思いです。谷口さんに見てもらい、作品として残された死者は、死の意味に不満があったとしても、ある意味では幸福だったのかな、と思います。不遜な言い方になるかもしれませんが、そんな感じ方をしました。
[ トップページ ] [ 12月の部屋へ戻る ]