きょうはこんな日でした【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラカワハギ」 |
1999.12.16(木)
東京に出張してきました。時間の余裕を持って職場を出たのですが、降りるべき駅のひとつ手前で降りてしまって、駅前の風景が違うことに気づいて大あわてをしました。すぐに次の電車の乗って、会議には間に合いましたが冷や汗ものでした。3度ほど行っている関連企業でしたから、ろくろく駅名も確かめずに出かけたのが敗因です。それとも寄る年波に勝てず、記憶力が減退したかなあ、否定できません。
夜は会食になりましたが、これもあまり良い酔い方ではなかったです。帰りの電車では眠りこけて、危うく乗り過ごすところでした。仕事上で酒を呑むというのは最近嫌気がさしています。今回は嫌な相手ではなかったので、そうでもなかったのですけど、どこかで気を張っていて、電車に乗ったとたん気が緩んだのかなぁと分析しています。それともやっぱり、「寄る年波」かな?
○詩誌『叢生』105号
大阪府豊中市 島田陽子氏 発行
ダブル/島田陽子
ハーフじゃなくて
ダブルがはやりだよ
といっている
わたしは シングルだ
それ以上はだめ
眠くなる
すでに朦朧たる世界に
琥珀色の液体がしみわたっている
半分ずつっていうより
二つの国の血がまじっているんだもの
ダブルだよね
なんの話?
飲んだのは赤ワインだったろうか
目をこじ開けると
白いチョゴリの制服を着た少女が二人
明るい表情でしゃべっている
つけっ放しのテレビの中で
そうか
ダブルはいい
ダブルは足し算だ
うなずきながら
こちらは引き算で再び溶けていく
やはり終連がうまいですね。足し算、引き算の使い方は見事だと思います。しかし、それにしても酒の量が少なくても酔えるというのはうらやましい。こちらは弱いくせにある程度の量がないと満足できない。困ったものです。
ワインならハーフボトル、ビールなら大瓶一本、日本酒は二合程度無いと満足できないのは、アルコール依存症の気もあるけど、精神的に弱いからだと思います。酒が無いと眠れなくて、朝まで起きてしまうから、と変な弁解をしていますが、要は精神面の弱さが露呈しているだけでしょう。
そこへ行くと島田さんは強いなと思います。「それ以上はだめ」とはっきり認識することなど、私には考えられません。私にとって「それ以上はだめ」と言えるのは酔いつぶれた時ですね。もっとも、その時には呂律も回らなくなって言えませんが(^^;;
で、この文章、もちろん酔いながら書いてます。
○笠原三津子氏詩集『遠い遥かな石の道』
1999.11.15 砂子屋書房刊 2500円+税
迷彩服を着た夫
夢の中
部屋に黙って入って来た夫は
迷彩服を着て 立っている
うしろをむいたまま
夢から覚め この平安なときに
何故 夫が迷彩服を着ていたのか考える
仕立て下ろしの色鮮やかな迷彩服
国の財政問題 沖縄問題 脳死問題 地震
わが家の遣り繰り算段 心配して
警鐘を鳴らすために やって来たのか
新聞に目をやれば人々の 憂いは山ほどある
指を折って数えてみる それにしても
夏はTシャツ 冬にはオーバーなど
見覚えのあるものを着て現われる
何処で着替えて来るのだろうか
心配かけてはならない 浄土に御座す夫に
亡くなったご主人は笠原さんの夢の中にたびたび現れるようです。他の作品からもそれは伺えます。迷彩服とはもちろん戦闘服。殺人のための服装です。それは何に対しての警鐘かは明白です。いつか来た道をこの国は再び歩もうとしているんでしょうね。目を塞ぎたくなりますが、それが現実です。
それはそれとして、この作品から夫婦愛の典型を見る思いです。ある年齢まで到達しないと出てこない愛情のようにも思います。個人的には今の嫁さんと別れたら、まあ、次があるさ、ぐらいに思っていますが、これがあと10年たっても同じ気持ちでいられるか、自信はありません。そういう意味でも年齢を加えることは大事なんでしょう。
ひとつの作品から、国家のこと、家族のこと、死者のこと、様々なことを教わるという典型的な作品だと思いました。
○雲嶋幸夫氏詩集『ふたたびの生還』
1999.11.30 土曜美術社出版販売刊 2500円+税
これから
これから十年 生きられるなら
松江に終(つい)の栖(すみか) 魚雲庵を むすび
父母の眠る公園墓地の傍に 己の墓を陶板で造り
シェトランド・シープドッグと暮らしたい
更に もう十年 生かされるなら
古志原に 登窯を築き 魚雲窯とし
古志原の黒々とした火山灰土を 練りあげ
ろくろを まわし
己の骨壺を 焼き
宍道湖で 鯊(ごず)を釣り
鯊の刺身と味噌焼を肴に
自作の ぐい呑みに
なみなみと 地酒「豊の秋」を そそぎ
ぞんぶんに ふるさとを味わいたい。
雲嶋さんは松江のご出身で、現在は板橋区にお住まいです。高層団地の12階にお住まいになっているとのことですから、望郷の思いは強いのだろうと想像します。この作品にもそれはよく現われていて、雲嶋さんの原点を見る思いです。
実は、他の作品にもっとおもしろいものが多い詩集です。ご親族との関係や奥様のことなど、映画会社にお勤めになっていたせいか、ビジュアルに詩が展開してゆき、飽きさせません。しかしそれらは人間であるなら誰でも経験することです。その経験を作品とするのはもちろん大事で、佳作が多くありました。私がむしろ興味を持ったのは、それらの現象を見る目がどこから来たのか、という点です。その答がこの作品だったわけです。
ロマンチストで、欲はなく、なるべくして詩人になった人なんだなと思います。前詩集は第一詩集としてのてらいもあったのでしょうが、この詩集にはそれを乗り越えた力強さを感じました。赤裸々にご自分のことを語って、一歩突き出たものを読者に与えたと思います。
○文芸同人誌『時間と空間』44号
東京都小金井市 北岡善寿氏 編集
一隅/山本祐子
青年館の横の広場は
町内の生芥と粗大芥の置場
車の出入りの激しい
小石と雑草だらけの広場には訪れる者のいない
崩れかけた斜面の雑草の間から
南瓜の花が惜しみなく咲き
おのれの場のように
逞しく実を結んでいた
どうしてこんな所で
声をあげるほど色づいていた
それはけっして
賭や冒険をしているわけではなかった
最初は正直なところ説明が多いなと拝見していました。しかし終連の2行でハッとしました。そうなんですね、生物は「賭や冒険をして」咲いているわけではないんですね。必死に与えられた場所で生命を維持しようとしているんです。それをきちんと見つめる作者の目は素晴らしいと思います。教えられました。
先ごろ文部省が「生きる力」をどう教えるか検討に入ったという新聞記事を見ました。生物に聞け、と思いましたよ。特にこの作品を拝見して、その思いを強くしています。植物に聞け、昆虫に聞け、と文部省が気づいたら、この国ももう少し良くなるかなぁ。日の丸、君が代の徹底だけに神経を使っているようじゃ期待薄かもしれません。
詩作品以外にも小説、エッセイ、評論と内容の充実した同人誌として定評があります。評論では近藤晴彦氏「立原道造V」、下田八郎氏「吉岡実論[」、エッセイでは北岡善寿氏「民話のこと」、幸治典子氏「竜飛崎」、伊藤龍昭氏「梔子のつぶやき」などを拝見して、層の厚さを感じました。
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