きょうはこんな日でした【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラカワハギ」 |
1999.12.17(金)
箱根の旅館で職場の忘年会。今年はある決意をしました。コンパニオンと遊びに行かない(^^;;
毎年、高い花代を払って遊んでいるのに飽きたんですね。ですから財布には余分なお金は入れておきませんでした。正解でしたね。宴会に毎年コンパニオンが来るんですが、今年も9人。そのうちの茶髪のオネーチャンと、ちょっといい女だなと思った子が二人で「呑みに行こうよ」。「お金を持って来なかったからダメです」と断わりましたが、かなりシツコク追いまわされました。
深夜1時から『山脈』同人の西本さんがNHKの「ラジオ深夜便」に出ることが判っていましたから、それを聞きたかったせいもあります。真面目に聞きましたよ。1996年に出版した「近江の文学風景−鳰(にお)の浮巣」を取り上げた番組で、久しぶりに西本さんのお声を聞いてほのぼのとした気分になりました。
しかし、その後がいけません。ラジオはロビーで聞いていたのですが、部屋に戻ってみると大鼾。5人部屋で、他のひとりも起き出して「寝てられないね」。とても朝まで寝ていられる雰囲気ではなかったので、そのまま帰ることにしました。起き出した同僚に断わって車でうちに着いたのが午前3時。ようやく安眠できましたね。鼾は本人には責任がないんでしょうが、困ったものです。土曜日は送っていただいた本を読まないといけないし、原稿締切もあるんです。鼾で睡眠不足になってられないんです。
○アンソロジー『大宮詩集』22号
1999.12.5 大宮詩人会発行
みのむし/廣瀧 光
陰鬱な風が
手足まで痺れさせ
握力の失せた感触から
めけ出せないまま
くくられて
温もりの記憶も
かわき
ぬけがらになる思考
立ち枯れる
はだかるすさんだ風に
揺られ
身をちぢめて
刻をゆだね
やがて からっぽになる
その日が
春
さすがに会長、副会長、顧問のお三人の作品は別格で、ここで取り上げるのはマナー違反になるように思います。その代わりと言ったら語弊がありますが廣瀧さんの作品を紹介してみました。
冬のキリリとした空気、小枝にしがみつくみのむしの風景が見事に表現されていて、そして「春」の一文字。素晴らしいとしか言いようがありません。長い間詩をお書きになっている方の、底力を見せられた思いです。
他にたてのたかこさんの「鳳凰」、竹内幸さんの「引越し前」、金井節子さんの「願い」などもいい作品です。大宮詩人会の層の厚さを感じました。
○たかとう匡子氏詩集『立ちあがる海』
1999.11.23 思潮社刊 2400円+税
立ちあがる海
太い綱が
ぎりぎりぎりぎり
海をしばるので
水辺があんなに遠くへいってしまう
帰りたくても帰れない
ここを渡っていったまま
年齢(とし)をとることもできない
もうすこしはやく歩けば
近づける
すでに
海をわたる
足
本当の海が見たい
折り重なる
うずたかくなる
背骨が
這う
そしてついに
曠野に出る
重たい石で蓋をされた暗い壕
閉じこめられたまま
立ちこめる硝煙
むせかえる
たくさんの死者たちは
慌てふためいて荷物を
運び出そうとしている
<危険>と書いてある
生きのびるために立ちあがる海
すこし高くなったようよ
重たい石の蓋を
取りのぞかなければ
縛った太い綱が
今にもほどけそう
表題になっている作品です。海をそのまま海ととらえても、言葉と置き換えてもよいと思います。あとがきでたかとうさんは「言葉は眼の前の現実の暮らしや風景にけっして追いつけない」と書いています。そのイメージをこの作品で見ても、あながち間違いではないだろうと思います。
しかし不思議に思うのは「年齢をとることもできない」というフレーズです。年齢がたってしまう、ということなら判るのですが年齢をとることもできない、とは? それだけ理不尽な、というような意味なのかもしれません。
構成にも妙があります。普通は、詩のタイトルは本文の直前に書かれているものなのですが、すべて前の頁に独立した大きな字で書かれています。最初は奇異に感じましたが、頁を繰るうちに慣れてきて、新鮮味を覚えるようになりました。細かなところまで配慮する作者の勝利ですね。
○浅野徹氏詩集『幸せ感覚』
1999.12.20 詩画工房刊 2000円
幸せのかたち
喉が渇いたとき
一滴の水の恵みに気づく
そのように 肉体の痛みによって
それが鎮められたときの
たとえようのない安らかな気分に
ささやかな幸せのかたちが見えてくる
指先の神経をおびやかす疼きが
日常のシナリオになって
その痛みを癒されることが
なんと快い気分に充たされる瞬間(とき)か
稲妻の速さでわかる
今 こうして
街路樹のプラタナスを揺らす風の感触に親しみ
きまぐれな雲を抱いている空の広さを
両眼で受けとめている
小さな生命を大地に預けながら
自然の鼓動を聴いている
生きるという充実した一瞬は
いつも 足もとにころがっていたのだ
今まで気づかないで通り過ぎた日々を
人を想う深いまなざしで
静かに 思い起こしている
浅野さんは腎機能障害で30年近くの透析を受け、その上右股関節機能障害まで加わった方です。直接お話ししたことはありませんが、日本詩人クラブの大会で何度かお姿は拝見しています。杖を突いて身体がご不自由なことは判っていましたが、いつも明るいお顔をしていて、不思議な人だなと思っていました。
昨年、第2詩集『夜の来訪者』をいただいて、その時は不覚にも明るいお顔の秘密が判らなかったのですが、今回の詩集ではっきりと理解しました。前向きな人です。ご自分の病気も生きる上で前向きにとらえています。病気になって良かったこともある、子供たちが結束して家族のことを考えるようになった、という趣旨の作品も何篇かあります。
大野新さんは、跋のなかで「こんな判りやすい詩集に、いかがわしい錘りをつける気には到底なれない」と書いています。私も同感です。浅野さんの人を見る目、ご自分を見つめる目をこの作品から感じとってもらえれば、紹介者としての私の役目は充分果せたと思います。
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