きょうはこんな日でした【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラカワハギ」 |
1999.12.26(日)
日本詩人クラブ常任理事・中原道夫さんの詩論集『いま一度
詩の心を』の出版記念会が池袋でありました。140名近い人たちが集まって大盛況でした。たぶん、今年最後の集まりだろう、ということもあって、忘年会も兼ねているような雰囲気で、和気藹々とした会になりました。
写真は、神崎さんのマジックショーで小道具を持つ中原さんです。和服姿の似合う方ですね。着流し、って言うんでしょうか、私なんかにはとても着られないもののようです。
二次会も盛況。座敷に座り切れず、座敷の外のテーブルにまで人が溢れ出す始末でした。お人柄、普段の世話役ぶりが人を集めるんでしょうね。見習いたいと思います。
○『山波言太郎朗読詩集』(上・下)
1999.10.30 ハーブ銀河鉄道刊 5000円
はて、山波言太郎ってどなたでしたっけ? と思ったら桑原啓善さんのペンネームでした。啓善さんというのがペンネームだしばっかり思っていました。桑原さんのお名前、お姿は30年も前から存じ上げていたのに、ご本名とはついぞ知りませんでした。詩人の仲間としいうのはそんなふうに、社会常識とは違った不思議な面があるんですね。
トラック島便り
君は
もう一度 僕を
呼んでみるかい
誰よりも若い声で
<ひろちゃん> と
スカンポの水車まわる
小川のほとりで
君は
眉間に貫通銃創をうけて
死んだという
その話を聞いたとき
僕は泣かなかった
あの頃は
みんな死んだからな
それから三〇年
君は死んだ 僕の中で
やはり眉間に貫通銃創を
うけて だ
トラック島の空は青いかい
僕らが国語で習った
「トラック島」の空は青かった
いまルビーの空の下に眠る君よ
僕にトラック島の便りを聞かせてくれ
「製作年月日」によれば1973.04.23とあります。戦中から30年経った時点での作品ですが、それからさらに30年近く経った現在、拝読して少しも古くなっていないことが判ります。時間と空間を超えた作品と言って間違いありませんね。
私の父親もトラック島に征っていたそうです。あるいは「君」と一緒だったかもしれません。父親は戦争の話を嫌がり、ほとんど私に伝えませんが、妙にトラック島のことだけは話しました。私の記憶にはトラック島という島の名前しか残らない程度にですが…。
父親を見ていると、文学者との違いを感じます。文学者はこうやって作品に残しますが、父親を含めた他の人たちは残そうとしません。仮に残したとしても「戦友会」という形にしかならないのは残念なことです。そんなことまで、この作品を通して考えさせられました。
○アンソロジー『旭川詩集』18集
北海道旭川市 旭川詩人クラブ発行
旭川在住の東みゆきさんよりいただきました。初めて目にした『旭川詩集』は、ご覧のように版画の題字で、いかにも北海道らしい骨太な感じがします。私が生まれた赤平にも近い都市が旭川で、子供の時には大都会というイメージを持っていた都市です。アイヌの熊彫りの骨太さを思い出しながら拝見しました。
美食症候群/浅田 隆
ほどよく脂をはさんでひきしまり
つやつやと育つ
目隠しもなく 屠殺
てぎわよく 解体
たっぷりの サーロイン
味ごのみの フランク
お買い得の バラ
もっともらしい名前がくっつき
冷たいガラスケースに顔見世する
いとしい塊たちよ
顎と舌を軋ませながら
ひたすら喰らいつく飽食など
下の下
ブランド品には
プライドという隠し味をそえて
紳士淑女の
品のよいモグモグが
いっそうひきたてる
恍惚メニューの滋味
残酷など 痴れたことを
おお…
美食追求こそ
きわまりない文化なのだ
…うまい牛みつけた
最初は正攻法で責められて、どうなるのかと心配しましたが、終連で安心しました。アイロニーたっぷりの味付けで(^^;;
このアンソロジーの中で一番手の込んだ作品だと思いました。
北へ、北へ−
あなたが死神だって堕天使だって
そんなのかまやしないわ
極北の地へ私を連れて行って−。
オーロラが見える位にまでよ
深夜、闇に繰り広げられる
極北の光の帯が振りまく
神秘的な虹色の粒子に打たれながら
瞳を閉じ、太古からの宇宙の声を聴き
そして 再生の夢を見るために− (東みゆき「北へ」部分)
長い詩ですが「再生の夢を見る」というフレーズに集約されていると思います。オーロラは見たことがありません。一度は見てみたいものです。そこに「再生の夢」を賭ける東さんの気持ちは判るような気がします。
○季刊・詩の雑誌『鮫』80号
東京都千代田区 鮫の会・芳賀章内氏発行
昔を今に/飯島研一
いま 安らかな空間があった刻を思い出している
60年安保の怒りと怒号が突然消え
四畳半の部屋の隙間がカタコトカタコト鳴り始め
俺の飢えが疼き始めたとき
時計が止まり
女の寝息が心よい音律となり隙間を埋め始めた
時代のエネルギーからとり残された空間を占めているのは一人よが
りの安堵感だけだったことに気づかず
浮遊する言葉だけが
生き生きと
臆面もなく
飛び交っている
ひしゃげたチャブ台とアカチャけた畳が奇妙に正確な均衡を保って
いる
女の寝顔をじっと見つめている
----あなたにはイデオロギーもないし信念だってありゃしない 何
時も黙って聞き 飲み 食べ デモの先頭に立つことの意味も考え
ようとしなかった でもそれでいいかと許している自分を納得させ
てしまうのがやり切れず 無事に二人が生きていればいい 裏切り
だ裏切りだと吊しあげられてもいいわけしないで黙っている間も喜
びの間だった----
老いて在ることの今日を切り裂くナイフは錆びつき
研いであげましょうか
遠くからなつかしい呼びかけがあり
瞬時
昔を今に
安らかな空間があった刻を思い出している
作者とはおそらく10年ほどの年代差があると思われます。60年安保の時は小学生で、私たちが体験したのは70年安保でした。たいした活動をしたわけではありませんが、それでもフランスデモに参加し、機動隊やら戦闘服を着た右翼に火炎瓶を投げられた記憶があります。
「安らかな空間があった刻」と作者は表現していますが、これが私にはよく判りません。70年安保は確かに私の青春の1頁ですが、決して安らかなものではなく、その後右傾化していたった労働組合を横目で睨みながら過ごした時代で、今の日本の原形を形作った時代として忸怩たるものがあります。私たちの至りなさが歴史的な重要法案をいとも簡単に通してしまう結果になったのだという気持ちが強くあります。
それが60年と70年安保の違いなのかもしれませんね。専門に研究したわけではありませんから、軽々しく言うことはできませんが、そんなふうに感じられます。あの、何万、何十万とデモに加わった人たちは今、どこでどうしているのでしょうか。いつも不思議に思っているのです。
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