きょうはこんな日でした【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラカワハギ」 |
1999.12.28(火)
日がな一日、いただいた本を読んでいました。10冊にのぼる本を読んで感想を書くというのは、さすがに疲れました。しかし、それ以上に教えられる喜びの方が大きく、心地良い疲れです。ちょっと優等生すぎる発言かな(^^;;
○徳弘康代氏詩集『横浜⇔上海
1988-1991』
1996.10.8 第2刷 夢人館刊 1500円
三年前の夏 中国のある村で三千の骨を見た
半世紀前その村に 日本の軍隊が来て
村人を崖の下に集めて銃殺し
火をつけて燃やし
崖を崩して埋めた
掘りおこして骨だけになっているのを
私は見にいった
あまり突然のことだったから
その骨たちは今も
その瞬間のままだった
半世紀前の骨が 叫んだり
眠っていたりしている
その中に
愛しあっている骨があった
一体の骨がもう一体の骨を背中から
抱えこむようにして横たわっている
同じ銃弾に貫かれたのだが
年月が銃痕も肉体も消してしまって
骨とそのまわりの愛情だけが残っていた (「題名」部分)
非常に重いテーマを扱った作品が多く、その中でも旧日本軍に関するこの作品は、私の胸に突き刺さってきます。私の父親も義父も中国に出征していたはずで、この作品の兵だった可能性は否定できません。
以前、教科書に南京虐殺を載せることに反対する国会議員の弁をテレビで聞いたことがあります。子供たちのおじいさんが、そんな残酷なことをしたなんて、どうして教えられるものか、というのがその議員の弁でした。わが民族の、うやむやにして忘れ去ろうという悪癖を見て愕然とした覚えがあります。つい、2〜3年前のことです。
「愛しあっている骨」は恋人同士なのか夫婦なのか、はたまた親子なのかは判りませんが、その無念を思うといたたまれない気持ちになります。わが同胞の傲慢さを、改めて感じさせる作品でした。
○詩誌『Avril』6号
東京都八王子市 三好阿佐子氏 発行
12/26の中原道夫さん詩論集出版記念会で原田道子さんよりいただきました。故・三好豊一郎さんのお弟子さんたちの詩誌のようです。
すだれ/三好阿佐子
夏の終りに一張りの古い簾を補修した 強い太陽光に灼かれ糸はぼろぼろ 細い葦は水分
がなくなりすぐ折れてしまう それでもあと一年だけでもと祈るような気持で縫う。
二十年以上も昔に近所の荒物屋で買った私のお気に入りだ。当初 障子を外したあとに
此の簾を懸けて一人悦に入っていたが年月を経るにつれ其処此処と痛んできて気にはして
いた。或時それを夫が丹念に繕っているのをみて驚いた。私には古くなれば捨てる事しか
念頭になかったから…… 彼は言う「俺は一度手に入れたものは徹底的に最后の最后まで
使うんだ。絶対に捨てたりはしないんだ」と
私の顔を見上げて意味ありげにニヤッと笑っ
た。
三好豊一郎という詩人はもちろん名前は知っていますが、正直なところ、あまり作品は読んでいないと思います。阿佐子さんは奥さんで、この作品から三好豊一郎という人の一面が見えるようで興味を覚えました。
また、小勝雅夫さんが1971年の「三好さんの百面相」と題するエッセイと写真を載せていて、生前の三好豊一郎の面影を偲ぶことができます。スキンヘッドで、まだ若い彼の風貌が良く表現されていて、こちらも興味をそそられます。おもしろい詩誌に出会ったな、という思いを強くしています。
なお、三好佐和子さんの作品を原文通り表現するために、文字の大きさを縮小しました。そうしませんと変な所で改行されてしまい、原文の良さを壊してしまうと判断したからです。まだまだパソコンは過渡的な道具だと思いますね。
○詩誌『COAL
SACK』35号
千葉県柏市 鈴木比佐雄氏 編集
こちらも中原道夫さんの出版記念会で、鈴木比佐雄さんよりいただきました。この詩誌は名前は聞いていたものの、手にするのは初めてで、うれしかったです。しかも執筆者は柴田三吉、浜田知章、山本十四尾、鳴海英吉、中上哲夫の各氏を始めとして錚々たるメンバーばっかりで、豪華なものです。
私事で恐縮ですが、12/10付けで発行された『山脈』の「山脈後記」で私は、東海村の臨界事故に関して「いずれ直接の被害を蒙った茨城の詩人たち、文学者の声が聞けるものと思う」と書きました。その私の期待に対して少しずつですが声が出てきています。事故から雑誌発行までのタイムラグを考えると、これからますます増えてくるのではないかと思います。
鈴木さんは千葉県在住ですが、この詩誌の中の「戦後詩と内在批評」という連載エッセイと思われるコーナーで『7「青い光」と「本当の記憶力」』と題して臨界事故に触れています。それが何よりの収穫でした。私は山脈後記の中で「問題を一企業に固定してすり替えてはいけない」と提案していますが、鈴木さんの見方も同様で、そこもうれしく思ったところです。
アリゾナ州のレッドバレーで
インディアンの末裔が放射能を浴びながら
広島長崎に使用された原料と同じように
先祖の土地からウランを掘りつづける
イギリスの詩人ワーズワースや
絵本作家ピーターラビットの故郷カンブリア近く
セラフィールド再処理工場付近で
白血病が多発しつづける
フランスのラ・アーグ再処理工場でもそうだ
あかつき丸は再処理されたプルトニウムを運び
世界の海を危機にさらしている
東北の果て青森県六ヶ所村は日本の全ての
カクノシリヌグイをさせられるだろうか
核の墓場を押しつけるものは誰か
現代のエネルギーの義母は
どんな刺よりもいたく
体内で暴れ回る残酷さだ
無尽蔵の電気を享受して恥じないもの
自然光の美、驚きを忘れた
私たち人間の影を消し去ろうとする
存在の根源的な暗さだろうか (鈴木比佐雄「カクノシリヌグイ」9)
ママコノシリヌグイという花に重ね合わせた「カクノシリヌグイ」という作品の一部です。1から10までの章に分かれていて、7では直接、東海村の原発をうたっていますが、他の章も導入部として描かれていて、圧巻です。エッセイ、詩作品ともにこれだけちゃんと書ける詩人がいることに、心強い思いをしました。
○季刊『下田帖』47号
静岡県下田市 下田帖編集発行所 発行
こちらも12/26に水橋斉さんよりいただきました。久しぶりの『下田帖』でしたので、なつかしく拝見。しかし読んでいって何かが違うことに気づきました。なんだろう? 詩が少ない! 174頁に及ぶ大冊ですが、詩は前田實氏の「STRESS(抄)」、金指安行氏の「ゆく秋」、それに水橋さんの「五橋」のたった3編しかありませんでした。おーい、下田の詩人たちよ、もっと詩を書いてくれ!
まあ、それはそれとして小説ありエッセイあり、写真の頁、果ては演劇公演記録まであって、さすがは総合文芸雑誌です。なかでも古川智氏の「世の中どうなってるの?−一九九八年日記抄「私の何でも評論」完−」はおもしろかった。新聞の社説や読者投稿記事に対して論評を加えるというものですが、特に大新聞の社説に対しては手厳しい。どうしてそこまでしか書かないの?、踏み込んでこうやって書いたらどお? やっぱり大新聞だとそこが限界? というような論評のし方で、胸のつかえが取れるようでした。
自腹を切って雑誌を発行している者の強みだなと思います。誰にも遠慮はいらないもんね。「完」と書いてありますから終りなんですかね。惜しいと思います。これからますます混迷の世になっていくと思いますが…。がんばってほしいものです。詩人たちもね(^^;;
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