きょうはこんな日でした 【ごまめのはぎしり】

1999.2.14(日)

 昨日は新延拳さんの詩集出版記念会の下打合せ、日本詩人クラブの例会と多忙でした。多忙ついでに例会のあとの三次会で若い女性とついつい話し込んで終電に乗り遅れてしまいました。しょうがないから旅館に泊まって朝帰りになったけど、いやあ、安い旅館で驚きました。神楽坂にある、というのも魅力だし、一泊5000円というのはカプセルホテル並みですね。部屋はまあ、お世辞にもきれいとは言い難いけど、カプセルホテルに比べれば格段の広さだからゆったりできます。今度、都内で遅くなって帰れない日はそこ、と決めました。

 詩人クラブの例会では中村不二夫氏が「21世紀における日本詩人クラブ」という題で講演を行いました。彼は知り合いでもあるし、詩人クラブで一緒にいろいろな仕事をさせてもらっているから、考え方もだいたい判っているつもりで聞いていました。ほとんどは賛同できたんですが一箇所だけ、あれ?と思わせる個所があったので、ここに記録しておきます。もちろんこの文書はご本人にお送りし、公平を期します。

 話は複雑系と単純系との比較になりました。20世紀は単純系の世紀で、「マニュアル」に代表されるように物事を単純化してきた。その結果として偏差値の問題や現代詩の未分化の問題などが起きてきた。21世紀はその反省の上にたった複雑系の時代である。特に分析などを好まない詩人はその複雑系の旗手である。というのが大雑把な趣旨です。
 ここで私があれ?と思ったのは、単純系への非難でした。確かに20世紀は科学技術の進歩で、自然を破壊しマニュアルに書かれたことしか出来ない人種を作り出してしまいました。そこは非難されても仕方ありません。しかし技術屋の端くれとしては反論をあげておく必要を感じたのです。
 中村さんの論調が非難一本槍に聞こえたのが気にかかります。20世紀の科学技術の発展の一翼を担ったと自負する私などには、とても耳が痛いことは事実です。工場の合理化に加担し、30人でやっていた仕事を3人でやれるようになった現在、結果として自分たちの子どもの就職口を塞いでしまったのは、何とも言われぬパラドックスです。
 しかし、それでも20世紀の科学技術の進歩は必要だった、と言いたい。19世紀の混沌とした世界から、分析し、単純化して物事の成り立ちを明かしてくれたのは20世紀の偉業だと思います。そこから我々の生活や思考も論理的になり、人生を楽しめるようになったではないか、と言いたいのです。
 中村さんがご指摘になったマニュアル化人間の弊害があるのも事実です。私もそこには憤りを感じています。しかし否定する必要はないと思います。複雑系と単純系は両立できます。むしろ両立させることが大事だと考えます。私事で申し訳ありませんが、まさに私の生き方は両立の模索だったと自負します。工場の技術屋としての単純系の仕事、ものを書くという複雑系の仕事、この両方が無かったら私という人間は存在しなかったろうと思います。
 お前なんか存在しなくてもいいんじゃないか、という議論も起きますが、それはちょっと措いておきます。自分の存在を消すことも考えた時期がありましたが、それは今回の論点からズレますので述べません。

 要は単純系のいい所を継続し、より彫りの深い複雑系を取りこむのが21世紀だろうと思います。中村さんが今後、同じ趣旨のお話しをどこかでなさるようなことがあれば、是非そのあたりまでお考えになっていただければいいな、と思います。当日、上述の反論をその場でやれば良かったんですが、発言者数に限りもあったし、まあ、自分のホームページでやるか、と考えてヤメにしました。

  きょうはちょっと前置きが長くなりました。


詩誌
『鳥』第32号
    tori32
  京都府京都市 洛西書院 発行

 2月11日の奈良での「鬼の会」で、洛西書院の土田英雄氏からいただきました。初めてお合いしましたが、もの静かな紳士です。

 ふり/高丸もと子

男子高校生がどかどかと電車にのってきた
制服の前を開けてすいている席を
大きくとってすわった
前にすわっている女子高校生にいまにも
話しかけようとしている

女子高校生二人はとっさに
いねむりをはじめた
足をそろえ
かばんに両手をのせて

危ないときには
しんだふりをするのは
にんげんにもあるのだ
こっくりこっくりと
二人そろって

これからいくつもある
生きるための
ふり
おりる駅まで
首のだるさをこらえて
息をこらしているこの二人

 この作品を拝見して、奈良での電車内の光景があざやかに甦ってきました。土田さん、筧槇二さん、筧さんの奥さんと私の四人で帰りの電車に乗りこんだときのことです。私たちより早く乗った高校生らしい男の子がふたり、パッと座席を占めました。その隣に筧さんが座りました。それで座席はいっぱいです。やれやれと思って彼らの前に立ったときです、彼らふたりはお互いに顔を見合わせ、立ちあがって、筧さんの奥さんに一言「どうぞ!」。
 私たちは一瞬何が起こったのか判らず、顔を見合わせ、そのあとドッと笑い転げてしまいました。筧さんの奥さんが席を譲られたのです。筧さんの奥さんにお合いになったことのある人はご存知だと思いますが、奥さんは席を譲られるほどの老人ではありません。しかし、その譲り方がまったく嫌味がなく、奥さんは喜んで席を譲ってもらいました。

 奈良の高校生の礼儀正しさに私たちは感心したものです。それと同じことがこの作品からも窺えます。東京あたりの高校生なら、こうはいかないと思います。しゃべりたいことがあったら、しゃべるでしょう。女子高校生も寝たふりなどしないで堂々と渡り合うことと思います。しゃべりたくてしょうがないのに結局、寝たふりを認識してしゃべり出せない男子高校生。寝たふりでかわそうとする女子高校生。どちらもほほえましくなります。
 作者の意図はもちろん「首のだるさをこらえて/息をこらしている」にあるんですが、ちょっと違う読み方をしてみました。奈良も東京も、どちらがいい悪いというつもりはないんですが、私のイメージしている高校生らしい高校生を見せてもらえた作品でした。


季刊詩誌
『裸人』第5号
   rajin5
 千葉県佐原市 五喜田正巳氏 発行

 昨日の詩人クラブ例会で、理事の五喜田さんからいただきました。当初は関東地方の有力な女性詩人を集めてしまったような詩誌でしたが、最近は男性の入会もあるようです。

 焦点/菊池敏子

目が まだ若く元気だった頃
針の孔がどんなかたちか知らなかった
糸の先に少し縒りをかけるだけで
ぞうさなく通すことができたので

眼鏡をかけ
舌でしめらせた糸の先をもどかしく縒り上げ
やっと通せるいまになって
はじめて知った針孔のかたち (部分)

 このあと一本のクロム鋼が孔を持つことによって「縫針」となるいじらしさ、へと続き、針孔が一番小さな焦点だ、として作品を閉じてします。菊池さんは不思議な人で、意外なことを知らなかったりして私を驚かせますが、この詩もそのひとつです。針の孔の形を知らないなんて! 試しに小六になる娘に聞いてみました。「長細いんだよ」と即座に答が返ってきました。

 先ほどの複雑系、単純系の話に戻りますが、菊池さんはいい意味での複雑系の最たる人だと思います。物事を理詰めで理解することを放棄しているとは思いませんが、複雑な現象をまるごと受け止め、ご自分の言葉で表現する詩人です。
 私もトンチンカンなところがあって、意外なことを知らないので会社でも「まあ、なんたるおぼっちゃま」と冷やかされます。菊池さんを見ていると同志を得た気分で心強くなります。でもやっぱり言ってやろう「まあ、なんたるお嬢さま!」

 立春/五喜田正巳

新聞を開くと
十日ほど前 一緒に酒を飲んだ
S君の死が記されていた
「焼かれるときは熱いだろうね」
と 冗談を言っていたが
こんなに早く焼かれるとは
S君も思っていなかったろう (第3連)

 昨年は山田今次さん、木村孝さんをはじめ親しい人の死に何度も出合いました。死ぬことが生物の道理なんだから、仕方ないことですが、それでもやはり割り切れないものが残ります。Sさんも「こんなに早く焼かれる」とは思ってもいなかったのでしょう。逝った人、残された人のやりきれなさを感じます。しかしそれでもこの作品からはある種のドライさを感じ、それが救いになっているように思います。
 Sさんがどんな人か存じ上げませんが、洒落っ気があって、愉快な人ではなかったかと想像できます。作品で「人を描く」というのはこういうことを言うんだな、と教えられます。たった一行「焼かれるときは熱いだろうね」で、その人の全てを言い表しすなんて、なかなかできることではありませんね。



      
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