きょうはこんな日でした 【ごまめのはぎしり】
1999.3.14(日)
きのうは日本詩人クラブの例会でした。「きょうはこんな日でした」というタイトルなのに、いつも「きのうは」で始まるのはちょっと変ですが、まあ、愛嬌ということでご勘弁を。
例会の前に1時間ほど発起人打ち合わせ。3/22に池袋で行われる「水島美津江詩集『白い針ねずみ』を囲む会」という出版記念会の、発起人の打ち合わせです。こちらはまあ、すんなりと終りました。
問題は詩人クラブ例会です。あまりいい話ではないので実名は避けますが、一会員が講演をしてくれました。「二十一世紀の詩のための試論」と題し「存在の場−現代科学の宇宙論と闇」と副題がついています。「現代科学の・・・」というところに私は惹かれて、楽しみに拝聴したのです。しかし、感想はヨクワカラン!
現代科学と詩、というのは私の30年来のテーマでもあります。そこに肉迫するお話しがあるかと思ったのですが期待外れでした。確かに「闇」についてのお話しは面白いものがありました。科学とは「光」に対するもので、「闇」についての科学はない、というご指摘はその通りだろうと思います。しかし観念的に「闇」についてお話しされても、こっちはチンプンカンプン。観念を表現するにはそれなりの「具体性」が必要と思います。
古来から科学者は詩人に敬意を払ってきました。「詩人のための物理学」(R・H・マーチ)などという本もあるくらいです。古典的な名著「ろうそくの科学」(ファラデー)も詩的ないい本です。講演者がどの程度の科学的知識があるか判りませんが、いやしくも「科学」と銘打つならその程度の本は読んでおくべきです。
筆が滑ったついでにもうちょっと書いておきます。いつも感じていることです。理系の人たちが自分たちの専門分野の本を読むのは当たり前としても、その傍らで「文芸春秋」「新潮」などを定期購読しています。これは私の会社の研究者たちがとっている行動で、一般的かと言われるとちょっと判りませんが、おそらく一般的な傾向だろうと思います。
しかし逆はほとんど目にしたことがありません。文系の人たちが何か好きな専門分野の科学雑誌を手にして、なんて見たことないですよね。
科学する精神、というのは、特に詩では重要な要素だと思っています。その精神を養うためにも、論理的で無味乾燥と思われる専門書も少しは覗いてみてください。論理の破綻や意外とウエットな文章に出くわし、ニヤリとする場面も多々ありますよ。
まあ、この手のことは私もボロを出しやすいのでこの辺にして、いただいた本がだいぶたまってしまいましたから、きょうは精力的に読みたいと思います。
○詩誌『思い川』5号
1999.4.1 埼玉県鳩ヶ谷市 桜庭英子氏 発行
日本詩人クラブの会員でもある桜庭英子さんの個人誌です。詩誌名の「思い川」は故郷にある「思川」からとったそうです。
この世の外から吹いてくる風に
枝を離れた花びらは
花見の酔客を ひらり
ひらりと跳びこえて
千鳥ケ淵に身を投げている (「ことしの桜」第1連)
“この世の外”と“千鳥ケ淵”がうまく結びついていると思います。亡き兄上をうたったと思われる作品です。桜には春の躍動感と同じに死のイメージがありますが、それをうまく使っています。
ことしの桜は空にほどけて
いっそう あでやかな
闇をひろげている (同・最終連)
“空にほどけて”という表現はうまいな、と思います。“闇をひろげて”もうまいと思いますし、前出の「現代科学の宇宙論と闇」を思いだしました。これは科学では表現できない部分で、詩人の面目躍如というところでしょうか。ここには私の言うところの「観念の具体化」がありますね。
○個人誌『パープル』12号
1999.4.16 神奈川県川崎市 高村昌憲氏 発行
4行詩を基本としてお書きになっている高村さんの個人誌です。フランス文学の専門家でもあるようで、毎号アランという人の翻訳も載せています。
学級崩壊
きみは この今を見ないでいられるか
教室を占領する騒音だらけの子らを
きみは この今を黙っていられるか
やさしい教師たちの言葉の遊泳を
錬金術のはなしは もう止めよう
語り合おうよ! サラダボウルのこと
しわがれた声よりも 心の周波数
しずかに想い出せ 白いチョークの音
想像するに高村さんか奥さんが先生をやっているのかな? まあ、そんなことは作品の上ではどうでもいいことなんですけど、最近マスコミを賑わしている「学級崩壊」ですね。うーん、難しい問題のようです。私も小学校PTAの役員をしていますが、幸いなことに私の学校では皆無のようです。それはそうでしょう、なにせ1クラス16名ほどしかいないんですから、問題の起き
ようがない。
PTA役員をしていてつくづく思うのですが、学校運営は生徒と先生と親、それに地域ですね。特に小学校では顕著のようです。それらが一体となっていれば、ほとんどの問題が解決するように思います。まあ、全校生徒が100人にも満たない小規模校だから可能なんでしょうが、大都市の学校にも学んでほしいところであります。
○隔月刊詩誌『紙碑』185号
1999.2.10 静岡県浜松市 伊藤賢三氏 発行
戸張みち子さんからいただきました。戸張みち子さんとは30年来のおつき合いで、私の20台前半を知っている人です。
戸張さんは今号では詩はお書きになっていませんが、エッセイで「夏の夜ばなし(その四)」というのを書いています。その中にこんな文章が出てきます。
わたしくは、その時に死ぬというのはこういうことなのかと思った。
横たわっているのはぬけ殻ではないか。それを眺めているわたく
しはここにいる。あれは唯の物体に過ぎないのだ。けとばされても、
踏んづけられても別にどうってことはないのだ。
夢の中で自分が死んでいるのを確認する、というパターンです。実際にそうなったら怖いけど、この夢はいろんな人たちが見ていると思います。私も見ました。確かにこの夢を見て、ホッとするところはありますね。恐怖というものは“知らない”から起こります。知ってしまえばほとんどのものは恐怖ではなくなります。その恐怖を取り除いてきたのが今日の科学技術でしょう。
その科学技術を持ってしても“死”の解明は今だにできていません。だから今だに“恐怖”なんですね。そこに登場するのが宗教であったり詩人の感性であったりします。齢80を越えた戸張さんの“死の哲学”を見る思いがします。
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