きょうはこんな日でした 【ごまめのはぎしり】
1999.3.24(水)
きのう予告しましたように、水島美津江さんの詩集『白い針ねずみ』を囲む会の写真ができ上がりましたので、載せます。
1999.3.22
左がご本人の水島美津江さんです。右はご亭主。いい男でしょう!お年は私と同じらしいです。ということは団塊の世代ですから、この世代はいい男が揃っているってことになりますね
(^^;;
いま写真を焼き増ししているところです。明日仕上がってきますから、出席していただいた皆さんにはお贈りします。お楽しみに。
○『谷蟆(タニグク)』6号
埼玉県熊谷市 小野 恵美子氏 発行
水島さんの会でいただきました。逸見久美さんの与謝野晶子研究や小野恵美子さんの原民喜研究、本田和也さんのアイルランド詩人ジョン・モンタギュの紹介などがあって、学究肌の雑誌です。
その中で逸見久美さんの研究に触れた「実証精神健在」という、(O)氏の文章は考えさせられました。
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が、学者も差別表現の糾弾に苦労していらっしゃる。特にこの問題 に敏感で自主規制をしてしまうのが、教科書を手がけている大手の出版社である。作家の全貌を伝えたいという研究者の願いと編集者 の思惑にはずれがあるようである。当時の言語感覚で表した作物を、現代の規範に当てはめて取り除くこと自体がおかしい。表現の自由という面からも論議されなければならない。(「実証精神健在」部分)
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与謝野晶子研究を出版する上での問題点です。これが事実だとしたら本当におかしなことだと思います。過去の作家の文章を、現代に当てはめて勝手に変更することであり、そんな権利は誰にもありません。日本ペンクラブの電子メディア対応研究会での論議にも通ずるものですが、過去の文化をなんだと考えているのでしょうか。科学者としてはあるまじき行為です。
もっとも、行政も出版社も科学者じゃありませんね。私にとって作家や詩人は科学者です。文学という科学を研究し表現する人たちです。この定義、合っていますよね?
ですから、作家や詩人が「それはおかしい」と言わなければならないでしょう。日本ペンクラブや日本文藝家協会には「言論表現委員会」というのがありますから、そこでも取り上げてほしい問題ですね。
○月刊詩誌『柵』148号
大阪府能勢町 志賀 英夫氏 発行
もう、この欄でもおなじみになった大阪の詩誌です。中村不二夫さんの詩論がこの雑誌の目玉になっていますが、今回も考えさせられました。
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しばしば詩論は詩作品のための潤滑油、あるいは詩は詩論との両輪によって成立する、というようなことを耳にしながら、こうした試みについて詩誌でほとんど見ることがない。なぜか詩誌の編集者は、同人の詩を集めることで半ば仕事を終えてしまっているようだ。それどころか、詩は難しいので、せめてエッセイは肩の力を抜いたもの、とでもいうのが読者サービスとでも思っているのか。余白を愚にもつかない身辺雑記でお茶を濁しているものがある。詩誌の編集者に求められるのは、詩論家としての資質であって事務能力ではない。勘違いも甚だしい。(「
詩と詩論の現在T−詩人の朗読、朗読の詩−1」部分)
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長々と引用しましたが、実に耳が痛い。私も『山脈』の編集長として10年を過ぎていますが、詩論らしい詩論を書いたことがなく、恥ずかしい限りです。ただ『山脈』の名誉のためにつけ加えるなら、同人の作品への批評は合評会できちんとやっているつもりです。その内容を自分たちの雑誌に載せる載せないは、我々の自由と責任で負うべきことだと考えます。
もちろん、中村さんの批判は『山脈』だけに向けられたものではないと思いますが、編集長としては思い当たる点もありますので、真摯に受け止めたいと考えます。エッセイについてもきちんと受け止めるつもりです。『山脈』は詩誌とは銘打っていません。私はいろいろな場面で「詩とエッセイ誌」という冠詞をつけています。それは「詩人は散文もきちんと書けなければ、いい詩も書けない」という筧槇二主幹の考えに賛同しているからです。
そうは言っても中村さんのご指摘のように、苦し紛れに「愚にもつかない身辺雑記でお茶を濁している」ときもあるのは事実です。編集長に欠稿は許されない、という意識からなにがなんでも書いているわけですから、これは反省しなければなりませんね。
さっきから酒を呑みながら書いていますが、急に酔いが醒めてきました (^^;
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