きょうはこんな日でした 【ごまめのはぎしり】

1999.3.26(金)

 バテテます (^^;  きのうは徹夜で、26時間働いて今朝帰ってきました。製造機に測定器を取り付けて、その前に座り込んでいましたが、測定中に何度も居眠りをしてしまい、寄る年波を感じています。以前は月に2度ほどの徹夜があって、身体はそれになじんでいたようです。しかし、ここ三月はまったく徹夜がない日が続き、身体はそれに慣らされていたんですね。
 まあ、それが普通の生活なんでしょう。30年間もちょこちょこ徹夜がある職業というのが異常なのかもしれません。


評論集『亡路への道』五喜田正巳氏著
   bouro eno michi
  1999.3.10 LD書房刊 麦の会叢書第55篇 1575円

 日本詩人クラブ常務理事の五喜田さんからいただきました。詩人クラブなどでお話を伺うと短歌に造詣が深い人だな、とは思っていました。この評論集は短歌雑誌『麦』や『千葉歌人』などに発表なさったものを集めたそうで、「造詣が深い」なんてものじゃないことが判ります。
 短歌の教室もお持ちのようで、そこでの講演集も含まれています。短歌に興味のある人、短歌をより深く知りたい人にはお薦めの一冊です。

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 それは私の偏見であるが、絵画などを観ていると、テーブルの上に果物とか皿とかフォークが置かれたり、花瓶に大小さまざまな筆が挿され、それがまるで花のように見えることがあったり、事実また繚乱の花に充たされていることもあるが、そういうものを含めて「静物」という題が付けられていることも珍らしくない。たしかに果物とか花瓶とか花そのものは、そこに置かれるということ、描かれるということについては静かなものなのであろうことは判るものの、何となく不思議な思いを抱くことがある。(「沈黙の言葉」部分)

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 このあと、「静物」とは辞書によれば「生きていないもの」であり、「静物」とという題をつけられた時点で死んでしまう、と続きます。そして画家は描くことによって「表情や言葉を与えるべきではあるまいか」と説きます。
 これは私にも同じ思いがあります。展覧会では最初に題を見る人がいますが、私はそうはしません。最初に作品を見ます。作品を堪能したあと、さてどんな題が付いているのかな、と楽しみに見ます。すると「作品T」なんて題になっていたりすると、本当にガッカリします。「風景」なんて題があると、それだけでもう帰っちゃいますね。

 そのことをある時ある画家に話しましたら「絵描きは絵に集中すればいいんです。題なんて付け足しですよ。」と言われてしまいました。それもなるほどと思いましたが、だったら題なんて付けなければいいのに。題も詩の重要な一部だと筧槇二氏から教わってきた私なんぞ、絶対に納得できません。
 それと同じことを五喜田さんもおっしゃっていて、うれしくなりました。詩人も歌人もその辺のことはちゃんと考えているんですぞ、画家諸氏よ。


詩誌『帆翔』17号
   
  東京都小平市 岩井昭児氏 発行

 そのためにきみの葬列は
 きみが愛しつづけた美術館や
 きみの行きつけの居酒屋
 バラの匂う花屋の前を
 ゆっくりゆっくりと
 蛇行しながら通ることをすすめる。(長島三芳氏「詩人の死−山田今次に−」)

 私の当面の師は筧槇二氏だと思っています。将来、80・90になったら、山田今次さんの生き方を手本にしようと思っていました。その山田さんについてはいろいろな詩人たちが哀悼の詩を発表しています。その度に私は胸を詰まらせながらも作品の良し悪しを私なりに考えてきました。この作品は淡淡としていながらも友人を亡くした長島さんの心中を見事に表現していて、詩人長島三芳を改めて私に強く意識づけさせました。
 「蛇行しながら」という解釈は難しいのですが、山田さんの葬列をしっかり見てほしいという意識と、戦前、特高に捕まった山田さんへのジグザクデモと二通りとれます。私は後者をとりたいと思います。反骨の詩人・抵抗の詩人と言うと山田さんは「ちょっと違うよ」と反論しそうですが、私が山田さんを憧れる要因のひとつですから、それはご勘弁願いましょう。
 その他、アウトドアに興味のある人にはお馴染みの大岳美帆さんの作品、毎号楽しみにしている小説、赤木駿介さんの「詩誌『第一書のころ』」などがあり、充実した詩誌です。



      
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