きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
  
980510 1998.5.10
 
この頁も淋しいので、こんな写真を入れてみました。日本詩人クラブの中原道夫さんに連れて行ってもらった池袋の会員制クラブにて。ときどき坊主頭にします。


1999.4.19(月)

 月曜日は会議の集中日なので、眠くて眠くてしょうがありません。フッと意識が途切れる瞬間があって、我ながら、アレアレと苦笑しています。休日は煙草の量が増えるんですが、会社にいると喫煙室まで行かないと吸えないので、そういう意味でもちゃんと会社に行ってるってことは、いいことでしょうね(^^;


詩とエッセイ誌『しある』24号
   sial 24
  長野県大町市 秋園隆氏 発行

 『山脈』の同人でもある秋園さんからいただきました。私もお名前だけは存じ上げている草飼稔氏の追悼号です。こうやって未知の詩人について特集を組んでいただくと参考になります。特に年譜がしっかりしていますので、後々の研究にも生かせると思います。

 すべての亡んでいく方向に
 救いがあるならば
 もっとむこうへ
 行かねばならない
 おれでない じぶんから
 脱れるために   (草飼稔「Merry-go-round」第1連)

 「1946(荒地)」とありますから、「荒地」グループにもいたのでしょうか。私の手持ちの資料では見つかりませんでした。それはともかくとして、すばらしい書き出しですね。一方向にしか回らないメリーゴーランドと、自分の方向を結びつけた発想はすばらしいと思います。それも1946年か、終戦の45年に書かれたのでしょうから、時代背景も加味して読むとその良さがひとしおです。
 もうひとつ言えることは、終戦と結びつけなくても、この連だけで独立して現代にあてはめられるということ。脱皮は常に着いてまわるものですからね。むしろ現代の、こんな時代だからこそ、この1連が私の目にとまったのかもしれません。
 この号では、葬儀の式次第や弔辞も載せてあります。追悼号のひとつの形としても私には参考になりました。未知の詩人ですが、ご冥福をお祈りいたします。


詩とエッセイ誌『しある』25号
   sial 25

  長野県大町市 秋園隆氏 発行

 25号も同封されていましたので、合わせて紹介します。

 懺悔/島崎雅夫

知人から頂いた 肉を煮始めた
この動物はどこで狙われ
どんな姿勢で命を失ったか
結局は推測の狩り場を出ない

やがて
杯と
杯の間に
幾つめかの肉片を口にした時だ
不意に幻影の檻から飛び出した
一頭の熊が家族のなかの俺だけを蹴倒すと
 いまさら何だ!
の咆哮一声残して
あっと言う間に
闇の中に姿を消した

以来
俺の胸の中で 天気の大きなかわり目に
身体の異状を覚えるのは
冷たく重く居座っている
銃弾のうずきか

 この作品もよく判りますね。判ると同時に、急に恐ろしくなります。人間である以上、動物を食べなければならないのは止むを得ないことです。でも、殺される動物の側からすれば「止むを得ない」ではすまないだろうなと思います。
 吉村昭さんの小説が好きで、単行本のほとんど9割以上は読んでいるはずです。その中に北海道の羆を扱った『羆嵐』という小説があります。人食い羆に襲われた村を描いています。当然、羆は悪者です。年頃の娘さんが食べられるシーンを、食べ残した肉片や着物の切れ端から推定して書いています。遺された両親の悲嘆も出てきます。
 しかし逆に羆にしてみれば、親を撃たれた子羆などはどうなのかな、と考えます。そこには羆も人間もありません。殺された無念が残るだけです。吉村さんは、そのあたりも言外に書いています。
 まあ、だから肉を食べるのを止めましょうというのではありません。本物の菜食主義者もいますが、ここではちょっと離れます。我々は何によって生きているのか、生かされているのかを時々考えればいいと思っているだけです。そしてこの作品のように、表現できれば最高でしょうね。


個人誌『粋青』16号
   suisei 16
  大阪府岸和田市 後山光行氏 発行

 限定30部という、手作りの極めて貴重な本を毎回いただいています。2/11のこの頁に「後山さんは仕事が外国を飛びまわっています。1年の半分は外国のホテルで暮らしているんじゃないか、と思うくらいです」と書きました。その他『粋青』を寄贈していただいている方も、同じようなことを感想として返信しているらしく、「海外、その詩への関わりと影響@」というエッセイを書き始めました。うれしいですね、こういうリアクションは。
 目をひくのは『言葉が「詩が書ける」あるレベルまで復活するのに長い時間を要した記憶がある』という下りです。『私は詩表現の言葉に「ある電位」のような「美しい電位」が必要だと思っている』ともお書きになっています。これは判りますね。なにも外国暮らしでなくても、こんなことはしょっちゅうですよ。「電位」という言い方も判ります。「ポテンシャル」なんて言われるより、いいですね。
 私は外国暮らしはおろか、この国から一歩も出たことがありません。出る必要もないし出たいとも思いません。世界詩人会議やペンクラブの世界大会なんかで出ることはあるかもしれませんが、それ以外ではこれから先の出ないでしょうね。そんな私が「判る」なんて簡単に言えないのかもしれませんが。

 今号から「安部公房詩ノート」というのも始まりました。これも興味をそそられる企画です。かく言う私も安部公房大好き人間です。まあ、歳がほとんど一緒ですから好き嫌いも似てしまうのかもしれません。
 この中の「無名詩集」は読んでいません。彼も詩人だった、ということは知っていましたが、不勉強で詩集は読んでいません。遅れ馳せながら私の入手しようと思います。
 一時期、安部公房に影響されたのは事実です。『赤い繭』、『砂の女』、『箱男』などなど枚挙にいとまがありません。私が小説も書こうと思ったのは安部公房の影響ですね。この先、後山さんがどんな展開を見せてくれるのか楽しみです。



 
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