きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
新井克彦画「茄子」


1999.7.1(木)

 いよいよ7月ですね。だからなんだ、と言われそうですが、まあ、とりあえずカバーの絵を変えてみました。夏らしく茄子の絵でも、と思ったんですが、茄子って秋物でしたっけ? まあ、いいかあ。
 それにしても、きのうのベイスターズは、あれはいったい何だったんでしょうね。対広島戦、20:4。勝ったのはうれしいけど、ちょっと広島がかわいそうになりました。しかし、それにしても崩れるきっかけというのは恐ろしいものですね。なにやら自分自身を見ているようで、怖くなりました。


中正敏氏著『詩・内省の合せ鏡』
   si・naisei no awasekagami
  1999.5.3 詩人会議出版刊 2400円

 私の尊敬する詩人のおひとり、中さんの詩論・詩人論集です。筧槇二、伴勇、井手文雄、中村不二夫の諸氏は私も親しくさせていただいている、あるいは親しくさせていただいた詩人ですし、嵯峨信之、三好達治、木原孝一、中桐雅夫など注目すべき詩人たちの、一味違った詩人論です。
 なかでも伴勇さんは、私を『山脈』に推薦してくれた恩人でもありますし、このような詩人論にはなかなか登場しない人ですから、とりわけ注目して読みました。
 伴さんの出生、私生活はほとんど知られてなく、12〜3年の付き合いのあった私も詳しくわかりません。20年以上伴さんとともに活動していた近文社の同人たちも、亡くなって初めて本名を知ったというぐらいですから、それも致し方ないのかもしれません。
 そこにいくと中さんの論は、かなり詳細に伴さんについて述べられております。伴勇研究には欠かせない論であると思います。おそらくここに書かれた以外の事実も、中さんはかなり知っているのではないかと想像しています。
 筧槇二論も新たな視点で語られており、貴重な資料です。代表的な詩集『逃亡の研究』についての考察は、私などとても及ばない論です。これまた筧槇二研究には欠かせない一級の資料です。
 本のタイトルとなった「内省の合せ鏡」は、嵯峨信之論のタイトルでした。その中に含蓄のある言葉がありました。

 <詩は批評>というとき、つまりは、それは自己批判となるはずである。生が何であるかを知りえぬものが、安易に他者を批判できる道理も資格もない。詩は内省の鏡に照りかえる自己の投影である。

 他人にはやさしく、ご自分には厳しい中正敏さんに叱られた思いです。


詩誌『象』94号
   katachi 94
  横浜市港南区 篠原あや氏 発行


 たまごの話/三上 透

たまごを
ぐるぐる回すと
黄味の山が無くなって
ただの液体になってしまう

それが
嫌で
いつも呑み込んでいた

鵜こっけいのたまごを
見たとき
山の高さに驚き
しばらく
呑み込むことさえ
もったいなく
しばらく
見つづけるだけだった

何年たっても
たまごは
黄味と白身の組み合わせで
変わることは無いが
僕の白髪は
確実に増えている

じっとたまごの内部を
見据える
徐々に黄味は
盛り上がる

その繰り返しで
僕らは
生きている

 三上さんは『山脈』の同人でもありますので、毎月のようにお会いしています。私より一回り以上若いはずです。その彼が「僕の白髪は/確実に増えている」と言うと、ザマーミロ、と思います(^^;; まあ、それは冗談として、エッセイ「詩のフィールドワーク」では、「子供会の会計係だとか、娘の学級問題、町内会の組長等、地域社会との係わりの中で、果たさなくてはいけない課題がだんだんと増えてきた最近である。」とお書きになっていて、ああ、彼も本当の意味での詩のフィールド≠獲得しているな、と思います。
 ですから、この詩の最終連「その繰り返しで/僕らは/生きている」も素直に納得できます。むしろ、そういうところにも眼を向けてきたことに無常の喜びを感じます。結局、詩は芸術であると同時に生き方そのものですから、自分の生き方を大事にしている彼に共感する次第です。
 なんか、ちょっと先輩面したモノ言いになってしまって恐縮しています。ちょっとエチルアルコールが入っています。ちなみに三上透という男は、私の3倍以上の酒量でも平然としています(^^)



 
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