きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
新井克彦画「茄子」


1999.7.16(金)

 
さすがに週に二回目の徹夜は、ツライですね。いつもなら24時間働いたら、朝はそのまま帰宅します。当然ですけど…。しかし、きょうはどうしても外せない会議があって、11時頃まで居残り。しかも、そのあと出張するか、という話になって、一瞬、ギョッ。一時は覚悟しましたが、結局、お前は行かなくていい、ということになってホッ。
 まあ、職業ですから多少の無理はします。しかも徹夜明けの身体というのは意外に調子がいいものです。鈍感になっているんですかね。でもその後のしっぺ返しが怖いんです。無理が効かない年齢になっていると自覚しましょうか。


鈴木漠氏詩集『色彩論』
   sikisairon
  1993.7.14 書肆季節社刊 2500円

 書名だけは以前から知っていた『色彩論』をいただきました。感激です。さすがに高名な詩集だけに、色彩を操った作品は見事です。その中で、どれを紹介するかは迷うところですが、やはり私の感性に最も合うのは、これでしょう。

 

光は直進し
あるいは屈折する
卓上に盛られる果実や
壜の頸(くび)の丸みのあたりでは
光は滑降しているようだ
壜の中に水は あくまで
透きとおっているのだが
水はけっして自分自身を
裸だなどと思わないだろう
不定形の水にとって
折々の容器のかたちは
折々の衣裳であるからだ
夕闇に囲まれた家庭の
小さな食卓を
一顆の灯(あか)りが蜜柑色に照らし出し
その点灯をまねて 籠の中の
柑橘の類は香りを揮発させる
果実のめぐりで 光は
わずかに彎曲しているようだ
…一般相対性理論演習
…非時香菓(ときじくのかくのこのみ)
光源は ほんとうは何処にあるのか
これら光は
何処から来て何処へ消えていくのか
明滅するすべての存在の
その末端に連なって
家族はそれぞれに
光の劇を眺めている

 硬質な、いい作品ですね。惚れ惚れします。私も興味をそそられている光と水についての、詩人らしい考察。蜜柑と家族との平易に見える組み合わせも、光と水があることによって、まったく違った意味合いに捉えられます。私がやりたかったことを、93年にすでにやられてしまった、という思いです。
 作品としては、もちろん私という個人が書いて、それが残るのが一番いいと思っています。しかし人類という立場に立てば、誰が書いてもいいでしょう。そういう意味で、科学と詩という分野で、この作品が出現したことは喜ばしいことです。後世の批評家がこの作品についてどう判断するか判りませんが、少なくとも私は20世紀の成果と考えています。
 「詩人のための物理学」、「水とはなにか」、「ろうそくの科学」など科学と詩を結ぶ著名な本がすでに存在します。しかし、それらはあくまでも科学という目で書かれたもので、詩人の側からの接近はあまりありません。鈴木漠さんがそれをすでに達成していることに驚き、賞賛を惜しみません。


詩誌RIVIERE45号
   riviere 45
  大阪府堺市 横田英子氏 発行

 巻頭の作品を紹介します。この詩誌の巻頭になるほどですから優れているのは当然として、良心≠感じます。

 七夕の夜の夢/石村勇二

地球は
きょうも雨だった
七夕の夜だというのに
星ひとつ見えない
失業率がさらに増えて
どこかの国が
また空爆されたりして

電気代 ガス代 水道代
食費に家賃
僕は君を守ってあげたい
愛だけでは生きていけない
人間社会のことを思うと
暗い妄想がまた激しくなる

タバコ代を節約して
プレゼントした
バザーのペンダントを
君は今も大切に
胸に温めてくれている

地上からは
星ひとつ見えなくても
雲を突き抜けた向こう
ほら 星が輝いている
祝福の声が聞こえ
君にも 僕にも
川に橋がかかっているのが
見える

 この作品からは人間の誠意のようなものを感じました。あるいは前出のように良心≠ニ呼んでもいいでしょう。石村さんはいろいろな面でご苦労なさっているようですが、この良心≠常にお持ちで、それが彼を詩人たらしめていると思います。
 しかもそれが個人に限定していないところが素晴らしい。ご自身の苦労は、社会とのつながりの中にあるとお考えのようで、作品できちんと証明しています。しかも一定の距離をおいて。詩人にとっては、そういう態度が大事だと思っています。人間のひとりとしての詩人ですから、社会に目を向けず個人のみに執着するのは、ちょっと違うんではないでしょうか。その意味でも石村さんの作品世界は広いと考えています。



 
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