きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「茄子」 |
1999.7.18(日)
アクセスカウンターの数字が1000を越えました。だから何だ、言われるとツライ(^^; 何なんでしょうね、まあ、4桁に行ったということだけですけど。1/17に開設していますから、ちょうど半年で1000ということになります。意外と早かったな、というのが実感です。こんな他愛もないことを書いているホームページに、当初は誰が来てくれるんだろうと思っていました。ちょっと安心しています。
来てくれる方が、詩誌・詩集の感想をお読みになるのか、文字コードを始めとした電子メディアと表現について興味を持たれるのか、はたまた横浜ベイスターズの勝敗に一喜一憂している(^^;ことに関心をお持ちなのか、実のところよく判りません。まあ、当面はこの路線でやっていくつもりです。掲示板でご意見など賜れば幸いです。
○菊田守氏詩集『白鷺』
1999.7.25 土曜美術社出版販売刊 2500円+税
いつもご指導いただいている菊田守さんから頂戴しました。「小動物詩人」と世間では評されています。前詩集『かなかな』に続いて面目躍如の観があります。
朝顔
犬がワンとだけ鳴くように
あっ という
声にならない声しか発声しない
開けっ放しのきれいな唇
あっという叫びが
花になって咲いている
花の精が内部で爆発している
桃色と水色と
群青(ぐんじょう)色が美しさを競っている
その傍らで
昨日の叫びが萎んだ蕾(つぼみ)になり
今日の生き生きとした花に
圧倒されている
そう
朝の彼女たちはいつも新鮮
驚きの表情は濡れて美しく魅力的で
朝はいつもいそいそと
疲れた昨日とはまったく別の
明るい朝の顔をもたらせてくれる
今朝(けさ)も
生け垣のところで
ほっ と
マリリン・モンローの唇に似た
濡れた朝顔が
新鮮な驚きを発してわたしを誘った
「小動物詩人」と紹介しておいて、朝顔の作品を転載するのは肩透かしのようで恐縮です。しかし、この作品からも小動物に対する詩人の思いを推察するのは、十分可能でしょう。底辺に流れるものは同じですから。
朝顔を表現するのに、「あっ」とか「ほっ」と使うのは見事としか言いようがありません。確かに朝顔を見ていると、そう思えます。「開けっ放しのきれいな唇」という表現もいいですね。擬人化の極地と受け止めました。
○森口啓子氏詩集『ささ
さ』
1998.9.1 詩乱の会発行 1000円
日本詩人クラブの丸亀大会でお会いした森口さんからいただきました。そして、少し驚きました。
梅
梅は落ちるとき あら、と言う
ふたつ落ちるときは あら、あら、と言う
あら、と梅がひとつ落ちれば他の梅も驚いて
あら、と言いながら落ちるので
梅の落ちる季節になると
あら あらあら あらあらあら。
飛んできた小鳥も珍しそうに あら
遠くから聞きつけてやってきた風も あーら
そばを通りかかった私も あららら
梅の周りはわいわいがやがや 大変な騒ぎ
すっかり騒いで最後の梅があら、と言って
地面に落ちてしまったあとは
やっと静かになって しんとする
前出の菊田守さんは朝顔でしたが、こちらは梅。どちらも優れた擬人法で、こんないい詩集が続くのは珍しいですね。菊田さんの「あっ」もいいけど「あら、」もいいです。思わずニンマリしてしまいました。
言葉としては「あ」がいいのかな、と思っています。開放的で、なんの邪心もないところが読者を惹きつけるのでしょう。こういう作品に出会うと、ほっとします。詩の持っている癒しの力とでも言うのでしょうか、精神をなでてもらっているようです。
私の家の庭にも梅の木が一本立っています。植物にはほとんど興味がなくて、時折やってくる庭師にすべてお任せですので、季節の移ろいもよく理解していません。それでもたまに庭に出てみると、梅の実がいっぱい落ちています。ああ、今は梅の時期なんだ、とようやく納得するていたらくです。来年の梅の季節には、あら、あらあら を発してみます。
○詩誌『方木田通信』8号
福島県福島市 静川あや氏 発行
日本詩人クラブ会員の静川あやさんからいただきました。まったくの手作りのようで、愛着を覚える詩誌です。
十三回忌/勝見方雄
昭和六十一年同窓の大先輩三人と友人、中学同級の二人、
詩人の平野威馬雄氏、私の妹が相次いで亡くなった。
今年は仏式で夫々十三回忌を迎える。
雑談的な詩の講座を担当したことがある
ある婦人が「詩」の話よりも「死」について話を
聞き度いと云われた お盆のころであった 人はみな
考えぬき 悩みぬいても
説明で納得できるものではない
故人を思い出せば 故人は私の中に生きている
と私は思うことにしている
生前その人から出た声や姿が私の脳細胞の中に生
きて蓄えられているのだから
しかし魂が光の速さで昇天されたとしたら
十三回忌 もう地球の外一一三兆粁の彼方まで遠
ざかってしまった
「色即是空」 遠くで夕蝉の鳴くように
うら悲しい (平成一〇年八月二〇日)
作品としては前文がよく効いていると思います。個人的には「もう地球の外一一三兆粁の彼方まで遠/ざかってしまった」ということに驚いています。仏教ではそんなふうに教えているんですね。想像もつかない距離です。何回忌、何回忌という毎に魂が地球から遠ざかっていくのかと思うと、ちょっと辛くなります。
○詩誌『方木田通信』9号
福島県福島市 静川あや氏 発行
この号も同時にいただきました。
道の向こうへ/静川あや
どうです と顔をむけたので
その人の目をじっとみた
普通の人の澄んだまなざしだった
趣味で沢山つくった陶器を
処分しようと思いました
無一文で生まれたのですから
身辺をゼロにして終わるのが
自然に対する礼儀でしょう
でもこんなお店
僕の一度はやりたかったなあ
昭和七年生まれの私に
あ 僕の方が二ヶ月若い
長くて白い杖を握りながら笑う
大丈夫ですよ
師走の闇の濃くなった道の向こうへ
その人はゆっくりと去った
まどみちおさんを思った
いつだったか
字がみえなくなって
もう本がよめない
これからは本以外のすべてのものが 私の本です
と 言われたことを
達観、と言ったらいいのでしょうか、ある種の潔さを感じます。この領域に達するまでは、まだまだかかるなと思います。あるいは達せないかもしれません。「無一文で生まれたのですから/身辺をゼロにして終わるのが/自然に対する礼儀でしょう」とまで、果たして言いきれるかどうか。土を相手にする陶芸家の真髄を見た思いです。
陶芸家とまどみちおさん、そして静川さんの秩序立った図式を頭に描きました。この方たちの年齢に私が達したとき、こんな凛とした気持ちでいられるか、考えさせられました。
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