きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
ベニス'99夏 |
1999.9.26(日)
きのうの『山脈』例会で、故・由利浩氏夫人から葉巻をどっさりいただいたので、楽しみました。由利さんという方は几帳面な方だったようで、何年も保管してあっただろう葉巻は、きちんと防湿されており、味に変化はないようです。もとの味が判りませんが、おいしいから防湿が効いていると思います。由利さんとは面識はなく、手紙のやりとりだけでしたが、几帳面さはその中からも覗えました。故人の冥福を祈りながら一服、合掌。
○詩誌『花』16号
埼玉県八潮市 呉美代氏 発行
晩年のあの人は
日ごとにかすんでくる目で
原稿用紙に向かって
ペンを走らせていた
「ぼくはもうあまり生きられないよ……
こんな所に連れてきて悪かったねえ」
「男は責任をとらるばならない」
彼は自らの信条に従い
<メシの種>なる仕事に
昼夜を明け渡し
書きたい「詩」を抱いたまま
息絶えたのだ (呉美代氏「雨の夜に」第7〜9連)
「あの人」とは呉さんのご亭主、故・土橋治重さんのことです。私は電話で土橋さんと一度だけお話ししたことがありますが「悪かったねえ」という言い方に土橋さんを思いだしました。電話で話をしただけの私にも、丁寧に応対してくれて、この言葉の底にあるやさしさを感じることができます。
「男は責任をとらるばならない」という言葉にも重みを感じます。土橋さんは詩人としても有名でしたが、戦国武将を書かせたら超一流です。私の本箱からも「戦国武将こぼれ話」「戦国合戦かくれ話」「人物おもしろ日本史」「日本史おもしろウラ話」などをすぐさま拾い出すことができます。
しかし、それも「<メシの種>なる仕事に/昼夜を明け渡し」た結果なのかと思うと、感無量です。さぞや好きな詩をたくさん書きたかったのでしょうね。合掌
○李美子氏詩集『遥かな土手』
1999.10.15 土曜美術社出版販売刊
荒川
多摩の丘陵から
荒川へむかう電車は
東京の心臓をすぎるころ
地下にもぐり下降をはじめる
町屋は 川底の駅かもしれない
通路にしめった風がふきぬけ
古い家から さびれた商店の奥から
たしかに潮の匂いがする
都市を見飽きた私たちに
不ぞろいな町は彼らの物語を発散している
町の記憶をさがして
地下鉄でゆく
水の底に私を
たずねる
*
大水は退いて
泥の中から片方の下駄をひろう
母の笑い声は晴れやか
わたしの足指の間で
うじがむくむく動いた
ばた屋の朴さんの屍体は
二日ぶりに水門に浮かんだ
綱引きをする屈強な朴さんの
足を川底へ牽いたのは誰なのか
夏の午後 町はにわかに活気づいて
こどもは夕涼みを取り上げられた
もぐり込む
雨の日の映画館
銀幕からながれる光線は
貧しい観覧席を深海の水槽にかえた
沈みながら 町も人も
折り曲がり 白く伸びて
しずかに発光をはじめた
李さんは在日二世で、何度かお会いしています。この詩集が第一詩集です。作品は何篇かは拝見していますが、こうやって詩集になるとやっぱり迫力ありますね。私の少年時代を思い出しました。
小学校の3〜4年は静岡市で過ごしました。そこに朝鮮部落があって、朝鮮の悪ガキ共と日本の悪ガキ共は、しょっちゅう石の投げ合いです。その時にできた頬の傷は今だに残っていて、私の心の傷となっています。訳もわからず朝鮮の子どもたちと喧嘩をした罰として。
昭和30年代の朝鮮部落を今でも思い出します。自分たちよりも弱い者を見つけるために、部落の回りを徘徊した日本の子どもの集団に、私も加わっていたことを決して忘れません。
それから40年。この詩集を拝見すると、日本人とはいったい何だったんだろうと思います。韓国、朝鮮の人たちのことを考えると、日本人として生まれたことを恥じなければならないように思えてなりません。もちろん、この詩集はそんなことを訴えているわけではありませんが、読む者は背景にある日韓、日朝の歴史を踏まえて読むべきでしょう。
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