きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
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ベニス'99夏




1999.9.28(火)

 うーん、4:0。とりあえず勝っていますが、ノーアウト満塁をやられてしまうとは、情ない(逆もあったけど)。横浜:巨人戦。一応、上原を崩したから良しとしますが、どうなることやら…。まあ、冷静に観戦しましょう。
 おっ、谷繁2塁打、5:0! 琢郎も打った! 6:0 盗塁も成功。ついでにホームまで走って7:0。でもピッチャーは川村から島田に変わって、マルちゃんに打たれて7:1。あれあれ7:2。
 よっしゃあ! 勝ったあ! 上原を負かしたゾ。でもなあ、今日も中日は勝ちそうだし、優勝への道は遠いなあ(^^;;


前原正治氏詩集『黄泉の蝶』
   yomi no chyo
  1999.10.23 土曜美術社出版販売刊 1900円+税

 鹿の声

黄や赤の葉の落ち尽した
深い夜の
林や森で
合図のように
鋭くかすかに
鹿が鳴く
確かに
いく人かの人々が死に赴き
黒い夜へ漂いでた
その魂の横顔は
荒涼とした月の光に照らされ
蒼く
けれどいま生まれたもののように
輝いている

 鹿というのは、もともと死のイメージがあるのかもしれません。神の使いとも考えられていますから、そこから死のイメージがあっても不思議はありませんね。しかし、ここで表現されている鹿は、死のイメージはあっても、暗くありません。「けれどいま生まれたもののように/輝いている」という表現が救いを与えているのだと思います。
 死、あるいは死のイメージをこのように詩う作品は、なかなかありません。他の作品も含めて考えると、作者のバランス良い感覚を感じます。


原田道子氏詩集『カイロスの風』
   kairos no kaze
  1999.9.30 土曜美術社出版販売刊 1900円+税

 ふうっ、であります。なんで「ふうっ」かと言うと、ようやく原田さんの作品に迫ることができそうだからです。なんと言っても、この詩集に森常治さんの解説があったことは大成功でした。原田さんご本人からも「森さんの解説で読んでもらえるようになるかも…」と伺っていました。ですから遠慮なく解説から入ってみたんです。そうしたら、頭の悪い私にもようやく原田詩に迫ることができたかもしれない、となった次第です(とても理解≠ネんて言えないけど…)。

 かあさんのイクサ

コロスノデモナク
ぼくの舌の先端を二センチもきったのは
ひょっとしてあなた(と かあさん)か
とあなたと傍らの
      でも
     だから
   そのむかし
    陥没した
 死角を奔る。と
あの黒猫がみせる
一語も発しないのに
これもイクサだという
たとえば言葉の位置は
この児が。カミチギラレルと
あなたにしか聴こえない悲鳴のような
なにか。なにかがなすすべもなく
一糸まとわない
かあさんではなく
あなたの胎内に
ラセンを描きながら
イクサをしかける
あきらかである。ここは戦場
じぃっとみている。これ。この浄瑠璃は
き。
ら。
きら
綺羅が
ゆれる
乳呑児がいる
きいてもいいですか
このイクサかあさんがはじめたのだから
いつかまた乳呑児であふれますよね
ありがたいことに
まだまだ奔る戦場から
どういう応えがでても
「ゆるします」と銃をむける。ぼぅうあん

 この作品を自分でも分るに解説するには、まず森さんの解説を載せて、それから読者の土俵を共通にしてからではないと、書けません(^^;; ですから、この詩集を手に入れていただいて、まず森さんの解説を読んでほしいと思います。さすがは記号論の権威の解説だけありますから。
 森常治さんの解説の中で出てこないことで、私が気になるのは「かあさん」という言葉です。この言葉は他の詩篇にもたくさん出てきます。森さんの解説では、文化から離れた言葉を解体して詩的決意による再構築(村山意訳)とありますから、「かあさん」という言葉尻だけを捉えるのも正しくないのかもしれませんが…。
 弱々しくなった言葉の呪縛から離れて、改めて原田詩を鑑賞すると確かに新しい発見があります。従来の言葉の持っている意味はそのままにしておいても、組み合わせとリズムと配置を考えると、時に胸が熱くなる作品にも出会います。まだまだ私の力ではきちんと表現できませんが、そう感じることだけは申し述べておきます。
 またまた「森さんの解説」で申し訳ありませんが、最後に森さんのこの言葉が貴重ですので転載します。

 「原田山に入山する方々へのガイド役として申し上げよう。ここから始まるけもの道ゆきかうジャングルの上をターザンのように飛び、「抱きしめられない天使」のいる岩山へと登るのにはニューロンのザイルがいちばんよい。発掘のツルハシを手にするにしても。」



 
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