きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
nasu
新井克彦画「茄子」




2000.10.1(日)

 なんとまあ、忙しい一日だったことか! 市民運動会の日でした。夜半にドッと雨が降ったんで、シメシメあしたは中止だな、と思いましたが、朝6時にはすっかり止んで、地面も乾きつつある。諦めて7時に集合しましたよ。
 でも、私の地区は何をやっても一等賞。私が出場した「ボール送り」という得点ゲームもダントツの一位でした。14名で競うんですが、私たちが終わっても他のチームはまだ2〜3人残っているというほどのダントツさ。練習も1〜2度はやりましたけど、なんでこんなに早いんだろうと我ながら不思議なほどでしたね。どうやったら早くボールを回せるかという研究の成果かなあ。
 で、結局、総合優勝。しかも3年連続。3年も連続優勝すると他の地区に悪いから、今年は2位ぐらいでいいね、なんて話していたんですが、やっぱりその場になるとムキになっちゃうんでしょうかね。他の32の自治会の皆さん、申し訳ない、来年は負けるからね(^^;;
 がんばり過ぎたせいか、調子を崩してしまいました。反省会と称する呑み会も珍しく辞退して、早々に寝てしまいました。やれやれ、トシは取りたくないもんです。


詩誌『餐』22号
san 22
2000.9.26 埼玉県所沢市
山根研一氏発行 450円

 ◎眠る小島から/上野菊江

青ひといろの展望に
忽然とあらわれた岩がちの島
金属の乾いた音を響かせ
岸壁を伝って動く
ひとつの影
男は自動人形のように
ひとがたを掘りあて
並べ置く
−帝王なんて みんな
ならずものに違いないけれど
利用できるものがあれば
掘り出してみたいと
おもったのサ

でもやっぱり
もう 手おくれらしい
掘り起こしはこれで止めよう−

 山根研一さんと上野菊江さんの二人詩誌です。今回のテーマは王と女王。山根さんが夜の女王を、上野さんが帝王を書くということで始めたようです。この作品は上野さんの「◎ひとは いかにして 王となるか」「◎ナンバー・ワン」「◎王を探せ!」に続くもので、このシリーズの最終作品です。前3作品は王を主体的(?)に見ているのに対して、最終のこの作品では、発掘あるいは盗掘という観点から見ているのがおもしろいと思いました。
 発掘か盗掘かは問題ではないのかもしれませんが、気になります。キーワードは「もう 手おくれらしい」というフレーズと思います。表面的には盗掘でよさそうですが、「利用できるものがあれば」を考慮すると発掘ととるべきなのか…。いずれにしろ視点を変えた作品を抑えに持ってくるというのは、組詩の場合の優れた技法と思います。


季刊詩誌『象』99号
katachi_99.JPG
2000.9.25 横浜市港南区
「象」詩人クラブ・篠原あや氏発行 300円

 家族団欒/加瀬 昭

いのちを切り刻むため
厨房には常に包丁が研がれている

俎板のうえで目を剥く魚
動かなくとも
ほんの少し前まで尾をひねがえしていたのに

哀れみを抱くものはいない
腐敗がはじまるので
手早く捌かねばならない

殺すことには慣れている
神経が麻痺しているのではない
欺く経験が
ひとのなかで堆積している
不思議なもので聖と俗が
奇妙に均衡している
かみさまは許したもうのか
一向に痛みはない

配色や盛り付けに気配りをして
食欲の貧婪さを刺激する
家族がもっとも和むのは
ひとつの卓を囲んで
生きものを餌食にするときだ

生きものを捌き
和みを演出するのは
清らかなあるじである
熱い火の上に乗せられて
身をくねらせる貝
その激しい動きにも
にこやかな微笑み忘れない
家族の皿に手際よく盛る
優しいあるじの手の先には
生きものの亡骸が摘まれている

 私もこれは常々考えていました。どなたの作品かは忘れましたが、ごはんよ、という声に二階から子熊がドタドタと降りてきて、皿の上のヒトの指を食う、という作品があって、それ以来考え込んでいます。この作品は人間の側から書かれていますけど、主題は同じです。「家族がもっとも和むのは/ひとつの卓を囲んで/生きものを餌食にするときだ」というフレーズは、本当に考え込んでしまいますね。
 しかし、そうは言っても食わないわけにはいかない。人間も含めて生物はそういうもんだと思うしかありません。せめて食べ残しだけはやめようと思うのですが、残念ながら立食パーティーの残りを見ていると無力感に襲われます。
 昔、小説の同人誌に所属していたころ、主宰者にこんなことを言われました。牛や豚を屠殺する人は、背中に南無阿弥陀仏と彫っている。これが判らんようではモノを書くな=Bモノ書きはそこまで人間を理解しろ、というふうに受け取りましたが、この作品でも同じことが言えるんではないでしょうか。



 
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