きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「茄子」 |
2000.10.6(金)
日本ペンクラブの電子メディア対応研究会が赤坂の事務所でありました。今回からインターネット関連が専門の牧野弁護士がメンバーとして加わってくれました。9/14に言論表現委員会主催でシンポジウムが行われましたが、そこでパネラーとして発言なさっていた方です。電メ研の秦座長が気に入って、すぐに入会してもらい、合わせて電メ研のメンバーにもなってもらいました。
弁護士さんがひとりいると、雰囲気がガラリと変わることを痛感しました。著作権などの法律問題になると、推測でしか話し合えず、尻切れになることが多かったんですが、きょうは違いましたね。法律上ではこうなっている、判例ではこうなっている、この問題の決着はついていない、とすぐに答えが出ます。じゃあ、どう考えるかと進めるんですね。この差は大きいですよ。これからの研究会が楽しみになりました。
そのあとは「神楽坂エミール」に場所を変えて、日本詩人クラブの理事会。10/14に行われる創立50周年記念東京大会のツメの作業に入りました。参加予定者200名ほど、40周年記念祭よりは多くなるのではないかと思います。議論の中で気づいたことは、分刻みのスケジュールと担当者の動きが明確になっていないこと。それを指摘すると「お前が作れ」ということになってしまいました。ヤレヤレ。
確かに私には多くの経験があります。『山脈』のイベントでは30名から100名まで、規模は小さいんですが毎回スケジューリングしています。誰かがそれをやらんと失敗することは判っていますから、引き受けてしまいました。と言うことは、当日の進行状況も管理するということです。と言うことは午後4時から懇親会が終わる9時までは、あまり酒も呑めないということ。ヤレヤレ。
まあ、当日は会場になる池袋サンシャインシティホテルに泊まりますから、9時以降にしっかり呑めばいいわけですけど…。そんな訳ですから、お泊まりの皆さん、都内の皆さん、9時以降にしっかり遊んでやってください。
○山口惣司氏詩集『心事片々』 |
2000.9.15 東京都豊島区 東京文芸館刊 2000円+税 |
待った!
飯岡さんはいきなり天元に打って
ぎょろりとわたしを睨んだ
その太い眉が怖いので
わたしは視線をはずしたまま黙々と打ち進めた
星と宙の間を遮断した時
手順の誤りがあって二度ほど『待った』をした
「五段の山口が初段の俺に
二度も『待った』をした」
盤面に石を放り投げながら
本当は俺の勝だったと言わんばかりに
飯岡さんは周囲に同意を求めた
そばで熱戦中の山田さんや鈴木さんは
ただにやにやしたまま取り合わなかった
もちろん勝負こどに『待った』は禁物である
ただ飯岡さんと山田さんの訃報に接した時
どうしてわたしは『待った』を
掛けなかったのだろう
昨年末 天彦さんや原さんから
湯河原の「杉の宿」で
新春早々、「詩人囲碁大会」開催の通知を受けた
まず念頭に浮かんだのは
飯岡さんや山田さんとの手合いは
もう無いということだった
わたしは欠席の通知を出した
那珂さんからの賀状は
『あらたまの 年の一石 宙に打つ』
とあった そして添え書きに
『「杉の宿」には一応申し込みましたが』とある
ははあんカモのわたしに
ネギを背負って来いというのだな
わたしはすぐさま不参加を取り消した
きっと来る
飯岡さんも山田さんも
宙から「とんぼがえり」をして
飯岡さんはあの太い眉でぎょろりと睨み
天元に一石を降ろすだろう
そのそばで山田さんは相変わらず
てかてかの頭でにこにこ笑っているだろう
二勝二敗で一回は引き分けの儘の那珂さんと
わたしは迷わず決戦をする
そして飯岡さんや山田さんが
いそいそと帰り支度でも始めようものなら
わたしは大威張りで『待った』を掛ける
決然と星と宙(天元)の間を遮断する!
註 苗字だけの各氏は飯岡亨、山田今次(両氏とも一九九八年不帰の客)、天彦五男、原満三寿、鈴木満、那珂太郎の各氏で、詩人囲碁大会の常連。
中でも那珂さんは一九九七年「中国訪問文士囲碁団」に参加してから、急に手ごわくなった。
ちょっと長くなりましたが、全文を紹介しました。亡くなったお二人は私も親交のあった方で、当時の衝撃を思い出しています。飯岡亨さんは『山脈』同人として亡くなり、山田今次さんは何度も『山脈』の合宿においでになり、螻の会に入れてもらったのも山田さんに会える機会が増えるから、という理由でした。
私は囲碁のことはまったく判りません。天元というのが「星と宙」であるということも初めて知りました。「決然と星と宙(天元)の間を遮断する!」という最後のフレーズに作者の無念を感じます。「わたしは大威張りで『待った』を掛ける」という言葉に、私も胸を熱くしました。そういう「待った!」なら、私も何度でも掛けたい。大先輩たちの往時の姿を彷彿とさせ、何度もくり返し拝見した作品です。
○詩誌『よこはま野火』39号 |
2000.10.1
横浜市緑区 よこはま野火の会・真島泰子氏発行 500円 |
落下傘/浜田昌子
父と母は山の畑からかけ下りて戻った
低飛行の飛行機から
いくつもの落下傘が降りて
木箱や缶詰がバラバラと降った
飼い猫は桃の缶詰の直撃で即死
村人は恐怖を忘れて
山に畑に落下物を拾い歩いた
その日のうちに
回収に廻った駐在所のおまわりさんまでも
山に穴を掘って隠してしまった
赤い民家の屋根を
米軍の捕虜収容所とまちがえたため
チョコレートや
クッキー
フルーツの缶詰が降った
おとぎ話のような日が過ぎて
落下傘で作られた布団が干されていた
農家の庭先
落下傘は強堅で軽量な絹
「母が孫のために落下傘を染めて
総しぼりの祝着を作ってくれた」と
街に嫁いだ友が語った
本当に「おとぎ話のような日」だったんでしょうね。戦争中はひどいものだったという話はたくさん聞きますが、その一方でそうでもなかったということも稀に聞きます。その稀な一例なのかもしれません。あるいはひどい時代の、一瞬の空白のようなものなのかもしれません。戦後50年以上も経って、余裕が出てきたところでの回想とも受け取れます。
いずれにしろ、こういう形で戦争の記憶を残すのは大事なことと私は思っています。戦後生まれの私には知らないことですから、こういう作品を通してしか理解することができません。立派な記録だと思います。現在の世界の体制の原点とも言うべき作品ではないでしょうか。
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