きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
nasu
新井克彦画「茄子」




2000.10.7(土)

 自治会の役員会がありました。今夜のメインは会計の中間報告でした。特に疑問な点もなく、無事修了。私なんかは一役員にすぎませんので聞くだけでしたが、会計の重責を負った役員さんは大変だったろうなと思います。規模は小さいんですが子供会の会計をやった経験から、今夜のためにがんばっただろうなと想像しました。ご苦労さまでした。
 考えなければならない議題もありました。人が歩けるだけの道をトラックも通れるような舗装路にしたいという希望が出されました。どうも残土の埋めたてを画策している気配があります。最近、神奈川県内でも残土の不法投棄が摘発された事例が2件あって、それを紹介しました。自治会としては加担することなく静観、ということになりましたが、気をつけないと不法投棄の片棒を担ぐことになりかねません。役員の全員が良識を持った人たちですので、そこは安心しましたね。


詩誌『叢生』110号
sousei 110
2000.10.1 大阪府豊中市
叢生詩社・島田陽子氏発行 400円

 柱時計/佐山 啓

家には柱があって
柱には時計が掛っていて
振り子が大きく時を刻んで
狭い家ではどこにいても
毎時ボーン、ボーンと鳴る音が聞こえて
家中がその時計の時に合わせて
動きますから
ねじを巻き忘れてはたいへんです
始めのひとつを聞き逃して
おおあわてでとび起きる日があります

家に柱がなくなって
柱に時計がなくなって
家中に時計があふれるようになって
そこらじゅうに大小様々な時計が
散らばっていて
遅れたり進んだり
勝手に時を刻んでいて
それぞれが頼りにしているのは
それぞれが決めている時計です

 なるほど、そんな見方もあるのかと思いました。確かに「それぞれが頼りにしているのは/それぞれが決めている時計です」ね。その「それぞれ」も2〜3個は時計を持っていて「決めている時計」が日々変わったりします。パソコンの時刻表示を見て壁掛け時計を見て、腕時計をはめて携帯電話を持つとそこにも時刻が表示されている。通勤用の車に乗り込むとデジタル時計が早く行けと言うし、街中では大きな時計付きのオブジェ。考えてみると身の回りは時計ばっかりですね。
 この作品のもうひとつおもしろい点は、第1連です。なにやら家父長制時代を象徴しているようではありませんか。ひとつの大きな柱時計を中心に行動している家族の姿というのは、いろいろなことを忘れてしまった現代人の私たちに、大事なものを思い起させてくれているのかもしれません。


詩誌『饗宴』25号
kyouen 25
2000.10.1 札幌市豊平区
距ム檎屋・瀬戸正昭氏発行 500円

 あきらめの悪い/木村淳子

あきらめの悪い恋人のように
夏はまだ立ち去りかねている
秋は背後から肩を押しているのだが
その手をはね返す夏の気魄に
圧倒されるばかり

「これで今年の西瓜はおしまいにするわ」
とスーパーで娘が言う

大きな西瓜に
すぱっと
包丁を入れて
夏の思いのすべてを断ち切る
赤い果肉を すっかり食べつくして
私の夏は もう終わり

というように
あきらめの悪い恋人と縁を切り
明日から
涼しい顔で 始められたら
この寝苦しさも
我慢ができるはずなのだが

 今年の夏は北海道も相当暑かったようですね。私の体験した北海道の夏は40年ほど前の一夏、20年ほど前の一週間、1995年の3日間と日数は少ないんですが、本州の暑さとは比べものにならないくらい涼しいものでした。それが本州並みに暑かったのですから、北海道の人たちのとまどいはよく判ります。それももう過ぎて、今頃は見事な紅葉の中なんでしょうね。こちらでは、私のうちの裏山にあたる箱根は、まだ真っ青です。
 そんな木村さんの思いが「あきらめの悪い恋人のように/夏はまだ立ち去りかねている」という名言を生み出したのでしょう。この言葉は本州人では思いつかないのではないでしょうか。短い夏を常に体験している道産子の木村さんならではのものと思います。これは本当に名言ですね。おそらく後世にも残る言葉ではないでしょうか。詩人としての大事な仕事をもう成し遂げたと言っても過言ではありませんね。



 
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