きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「茄子」 |
2000.10.14(土)
午前中は娘の通う中学校に行ってきました。正確には10時まででしたけど…。文化活動発表会というのを観てきました。生徒とPTAの作品展示は時間が無くてほとんど見られませんでしたが、コーラスや詩の群読、全校生徒による演劇は途中まで観ることができました。アナログの写真は撮ったんですが、まだプリントしてないので、代わりにプログラムの表紙を紹介します。
ちょっと大きくてごめんなさい。このくらいにしないと作品の良さが伝わらないと思いますんで…。
1年生による詩の群読は「木」でした。どなたの作品か注釈はなかったんですが、書き方からすると谷川俊太郎さんのようですね。バックに木の映像を投射して、なかなか雰囲気のあるものでした。演劇は全校生徒(といっても60名ちょっとですが)による「Over
the Rainbow」。残念ながら途中までしか見られませんでした。でも、真剣な様子は伝わってきましたね。うちの学校の良いところは、この真剣さ。しかも全員、と言っても過言ではありません。小規模校の良いところです。
後髪を引かれる思いを振りきって、10時に退席。11時の小田急に乗って、12時半には池袋に着きました。本日は日本詩人クラブの創立50周年記念祭です。日蘭文化交流400年記念も兼ねて、オランダ大使もお迎えしてサンシャインシティプリンスホテルでの式典です。実行委員は13時集合ですから、なんとか間に合いました。私の任務は「会場担当」。具体的には、ナンデモ屋です。お客さんの誘導からスケジュール管理、懇親会で酒が足りなくなった場合のホテル側との交渉とか、まあ、適材適所かな(^^;;
上の写真は会場風景です。250名ほど集まっていただきました、ありがとうございます。講演しているのは森常治理事。下の写真はポエトリーリサイタルを終えて挨拶する、ピアノの門光子、朗読の松村彦次郎、橘由香、小川英晴の各氏。小川さんはリサイタルの舞台監督でもありました。これ以外の写真は日本詩人クラブのHPにも載せますので、そちらもご覧になっくれるとうれしいです。でも、2〜3日待ってね。自分のHPをアップした後で詩人クラブのHPを作りますから、、、って、本当はオオヤケの方を先にするんだよね(^^;;
個人的には、いろいろな人に会えてうれしかったですね。後山光行さんとは10年ぶりか20年ぶりか、ほんとうに久しぶりにお会いしました。大谷武さんは仕事であちこち移動している最中を、むりやり来てもらいましたし、佐々木誠さんは秋田から飛んできてくれて、皆さんに無理を言ったかなあ、と多少は気にしてます。でもまあ、一緒に呑めて良かったよね!?
○小山和郎氏詩集『白地図』 |
2000.9.13 群馬県伊勢崎市 紙鳶社刊 1600円 |
作者の自伝的作品と言い切ってもよいと思います。戦時中から現在までの白地図≠ノ何を書いてきたか、壮絶とも言える作者の半生が読み取れます。
角を曲がるとすぐ丁字路になっていて道を
間違えたのに気づいたのは早かった。引き返
せばもとのところへ簡単に戻れそうだった
が、おおよその方角は判っているつもりだっ
たので、そのまま歩き続けた。それが正しい
のか間違っているのか、そんなことは判りよ
うがない。なにしろそのままの道をいまでも
拾い歩きし続けているのだから。「白地図」第1連
詩集の冒頭の部分です。これから始まる詩篇を暗示させる、優れた導入部だと思います。おそらく「旧制の工業学校で化学科の生徒だったとき(「エクササイズ〔白地図・XU〕」部分)」か、戦後の混沌とした時代の頃がこの部分を語らせているのでしょう。
このあと、空襲・売春宿・麻雀と作品の素材は変化に富んでいきますが、読者は冒頭のこの第1連を常に頭に入れておくように仕向けられているといっても過言ではありません。
いっぺんに敗戦の色濃くなる年の元旦、脳
出血で倒れ意識不明のまま、畳にひと形の残
像を残して逝った祖母。キャサリン台風の濁
流の中から帰れなかった母。派手好みの父は
不遇な晩年を二重の鬱屈のなかで尽きた。親
しい友人や恋人だった少女との別れも、スト
レプトマイシン出現以前の結核療養所ではか
なしい日常だった。自ら生命を絶った年少の
甥。呼吸をしないで世に出てきた最初のわが
児など、死の相はそのたびに塗りかえられ、
思い返すと痛みまでが甦るこれらのなかに、
この頃、黒い花びらの水原弘の含み笑いや三
遊亭小円遊のキザな科白が聞こえたり、国鉄
スワローズ石戸投手の強烈なシュートが瞼の
裏がわを彎曲しながら走ったりするのは、肝
炎で食道の静脈瘤を破裂させてからの、あり
きたりの感傷かもしれないが、そればかりで
はなく、死の相と凶ごととは分けて見られる
ようになったからにも思われるのだ。「エクササイズ〔白地図・XU〕」第3連
こちらは詩集最後の詩篇です。ここに至る12の詩篇の総まとめと言ってもよいでしょう。短い連の中で数十年の世相と、作者の置かれた位置と思想を端的に表現していると思います。作品とは関係がない、と言わねばなりませんが、時に看護婦の奥さんをお供に詩人の集まりにおいでになる小山さんの、原点を見たように思います。人生も詩人としても大先輩の詩集に、多く教えられることがありました。一読をお薦めします。
○詩誌『コウホネ』8号 |
2000.10.10
栃木県宇都宮市 <コウホネ>の会・高田太郎氏発行 500円 |
はぐくむ/相馬梅子
「大きく口をあけて」
私は声にして
ひと匙 ひと匙
母の口に白い糊状の主食を入れる
お膳には色どりよく小皿にペースト状のものがならぶ
みどり ピンク ベージュ
私はスプーン先に一寸つけてなめてみる
かすかに肉か魚の味 みどりはほうれん草
「大きく口をあけて」
私の声に まるく口をあける母
ふと遠いむかし
母もこのように私を養ったのかと思った
離乳食の缶詰など無かった時代
乳歯が白い芽のように生え出た口に
母は今の私がしているように
「お口をアアーンして」と言いながら
食べさせてくれたのだろう
百三歳の母の口に
得体の知れないペースト状のものを
「大きく口をあけて」と私
母は金魚が水を飲むように丸く口をあける
食欲のない日は
目を閉じたまま いらないのしぐさ
母の食欲は寿命のバロメーターと思うから
食が進んだ日は私の心も明るく
自転車のペダルが軽い
「百三歳の母」とありますから、ここに登場する「私」もそれなりの年齢の方と思います。母子の関係というのは年齢に関係ないんだなと、つくづく思いました。そして、4連の母子の役割が逆転するというのは、ある意味では幸せなことと言えるでしょうね。逆転する前にどちらかが先立つというのが一般的かもしれません。長寿社会になっても、「百三歳の母」を持てる人というのは、そうそう多くはないでしょうし。理想の母子像を拝見した思いです。もっともっと長生きしてほしいものだと思いました。
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