きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画「ムラサメモンガラ」




2000.12.8(金)

 休暇をとって幕張メッセで開催されている「セミコンJapan」に行ってきました。本来は出張で行くべきなんですが、報告書の提出などを考えると面倒なので休暇にしました。私たちが2年間を費やして完成させた製品の発表会です。初めて行きましたが大きな展示場で、私たちの製品にも何人かのお客さんが質問を寄せていて、感激しましたね。実は自分が手がけた製品の展示会に行くことは初めてでして、余計に感激したのかもしれません。私が技術担当として関わった製品をお客さんが見てくれているということは、私の詩集を世に問うという立場と同じなのかもしれません。実業と虚業(失礼!)の2面を見られる幸せを今日ほど感じたことはありません。本来、技術屋は営業と一線を持っているようですが、今日ほど営業社員のディスプレイに感激したことも付け加えておきます。

 その後はアタフタと赤坂に向かいました。15時から日本ペンクラブの電子メディア対応研究会が予定されていたんです。今回から初の女性委員も加わりました。朝日新聞にいた方で、大新聞側としての電子メディアに関する意見を聞くこともできました。
 今回も牧野弁護士が電子メディアにおける著作権のレクチャーをしてくれました。さすが電子メディア専門の弁護士だけあって的を射た講義でした。ジャスラックのように文芸家も著作権を信託管理する団体が必要になるか?ということが主題のひとつでしたが、問題はそう簡単ではないようです。ジャスラックの「著作権信託契約」を見て驚いたんですけど「委託者は、その有するすべての著作権並びに将来取得するすべての著作権を、本契約期間中、信託財産として受託者に移転し、……」という項目があるんですね。まだ発生していない将来の権利まで委託しちゃっていいのかなと思いますよ。
 文芸家の著作権保護にジャスラックのような強力な団体が必要なのか、もっと考えなければいけないでしょう。しかし委託団体が変な力を持ってしまうと本末転倒になる危険性もあります。日本ペンクラブが扱うより日本文藝家協会が扱うべき問題ですが、まあペンはペンの立場として検討することはおかしなことではありません。もうしばらく議論は続いていくだろうと思っています。

 終わって、秦座長に呑みに連れて行ってもらいました。以前いただいたメールに「赤坂に西洋料理を家庭的に出してくれるいい店を見つけた、行きましょう」とあったので、てっきりそこかと思っていたら、18時開店だそうで、待つ時間が惜しく諦めました。変わりに連れて行ってもらったのが帝国ホテル。以前行ったこともあるような、まあ、私なんかでは滅多に行かない所です。
 5階の「インペリアル・クラブ」という所に行きました。どうも会員制のクラブのようです。
十七年もののバレンタインとクラブサンドイッチをご馳走になりました。おいしくて話も弾んで、自分でも珍しく呑み過ぎているなと思うほど呑んでしまいました。泊まる時は結構しっかり呑みますけど、帰るときは自制しているんですよ、これでも。それにしてもいいクラブだったなあ。女の子も品が良くて、会話の端々に知性が滲んでいて、やっぱり私の行く店とは違うなあ。大衆酒場もいいけど、最近はゆっくり会話を楽しめる店に視点が移っています。それをトシと言うんでしょうね、たぶん(^^;;



秦恒平氏著『湖の本』エッセイ21
umi no hon essay 21
2000.12.1 東京都保谷市
「湖(うみ)の本」版元発行 1900円

 「日本語にっぽん事情」という総タイトルが付けられていて、「日本語で「書く」こと「話す」こと」「いろは日本誌」「日本語で「読む」ということ−春琴と佐助−」「再び日本語で「読む」ということ−名作の戯れ−」「電子時代の作家の出版」などのエッセイが収められています。
 秦さんの日本語への造詣の深さにはいつも感心していますが、今号もその思いを新たにしました。それに何と言っても今号は小説の読み方について考えさせられました。「日本語で「読む」ということ−春琴と佐助−」では谷崎潤一郎の『春琴抄』を取り上げて、小説の読み方を間違ってはいけない、行間にある作者の本当の意図を読まないとダメだと教えられました。でも、それはそんなに難しいことではなくて、次のように述べています。

   本文の流れに自然に乗って読む。普通の読書の、それが普通の姿勢であっていいでしょう(123頁)

 書く側と読む側の双方の目を持った人の言葉だと思います。もちろんこれ以外にも重要な指摘はいっぱいあります。それを書き出すとキリがないのでやめますが、実はこの言葉は普遍的なものだと思っています。小説もそうですが、自然現象を扱う分野や私のような工場の技術屋にもあてはまる言葉なんです。普通の感覚がないと現象は理解できないし、間違った結論に陥ってしまいます。過言すれば人生も同じなんではないでしょうか。そこまで考えさせる言葉だと思います。



詩誌『しけんきゅう』135号
shi-kenkyu 135
2000.12.1 香川県高松市
しけんきゅう社発行 350円

 残暑/倉持三郎

この暑さを大事にしまっておこう
自然と体の表面からしみだしてくる汗を
ひたいににじみ出る滴を
ものうさを。
おしつけてくる物言わぬ空気のかたまりを。

おまえは必死だ。
全力で愛撫する。
抱擁を繰り返し
汗ばむ胸を押しつけてくる
姿を見せぬ豊饒なアマゾン。

おまえは遠くのほうから忍び足でくる
冷気の集団の気配におびえている。
いつ足元につめたい風が吹きこんでくるかわからないのだ。
別れの朝のように
最後の力をふりしぼって体ごとおしつける。

汗の滴を大事にしよう
愛の証しとして。
沈黙のあつい抱擁を
力強い愛撫を
上半身裸でいた日を
昼下がりの圧迫を
記憶の箱のなかに大事にしまっておこう。

 最初の「この暑さを大事にしまっておこう」にパッと目が行きました。何というフレーズだ!と思いました。残暑なんか早く行ってもらいたいと思っている方ですから、大事にしまっておくなんてどういうことなんだろうと惹きつけられたわけです。その辺の作者の呼吸はうまいですね。
 2連を読んで、一瞬、女性のことかと混乱しました。しかし読み進めるうちに主題はあくまでも「残暑」であることに変わりはなく、読者をここでも惹きつけていることが判りました。何とも小憎らしい限りです(^^;; まんまと作者の術中にはまったなと思いました。それもイヤらしくなく、表面はあくまでも貞淑と言ってもいいでしょうね。詩をつくる上での高等な技術を見せられた思いです。



湧太詩誌 3『那珂川』
yuta shishi 3
2000.8.3 栃木県茂木町 彩工房発行 非売品

 舟

時と時とのあいだを
流れるように
一艇の舟が下っていく

限度を越えた覚悟に
辛うじて
息をつめ
遠望する
空から
太陽が没落した

白くもやった
霧が
忽然と消えた
川に 風がわたり
新しい波紋がひろがる

 「時と時とのあいだ」というフレーズに悠久も感じ、逆に有限をも感じます。「新しい波紋がひろがる」とありますから、悠久ととった方が正解なのかもしれません。「限度を越えた覚悟」とは何か。このフレーズが鍵なのかもしれませんね。その言葉には有限を感じ、消滅したその後に「新しい波紋がひろがる」のかもしれません。
 「川」はおそらく那珂川でしょう。私も上流に何度か行ったことがあり、幅が狭い割には水量がとてつみなく多かった記憶があります。そこに浮かぶ「舟」なら、翻弄という言葉があてはまりそうです。作者の人生が何かによって翻弄されている、そんな風にも読み取れる作品だと思います。



清岳こう氏詩集
創業天明元年ゆきやなぎ
sougyou tenmei gannen yukiyanagi
2000.10.1 東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊 2000円+税

 心願成就

百度石 諸願成就
長岡郡天坪村 吉永茂 妻 豊江 長女 美子 建之

十五の時には十五の願い
五十の時には五十の願い
手を合わせていると
今年こそ ひそかな願いは叶えてもらえそうな気になり

奉納 昭和五十五年 三月十五日 大安吉日
亥年生四十五歳女 寅年生十八歳男

子どもには子どもの祈り
女には女の祈り
お祈りの多さに神様もてんてこまい

やはり
鈴の振り方が少なかったのか
柏手の音が小さかったのか
今年も 私の姿はお目に留まらなかったらしい
 
薫的神社にて

 全編、広告やポスターの言葉を借用しての作品です。これがなかなかおもしろい。広告なんてキャッチフレーズですから、詩に近いものがあるのは当然かもしれません。そこに着目した作者はさすがですね。紹介した作品はご覧の通り神社の奉納(ゴシック体)をベースにしたものです。庶民の願いが表れていておもしろいですね。それに作者の思いが重なっているけれど「今年も 私の姿はお目に留まらなかったらしい」と締めるあたりは詩的効果バツグンと言っていでしょう。
 私も以前、広告を詩にした作品を書いたことがありますけど、詩集にするまで徹底していなかったなあ。その甘さが清岳さんとの違いかな、なんて自省してます。



 
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