きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「ムラサメモンガラ」 |
2000.12.9(土)
日本詩人クラブの12月例会(国際交流)と忘年会が神楽坂でありました。毎年12月は国際交流の月として、外国人に講演をお願いしています。今年は米国の詩人で国内在住のアーサ・ビナード氏です。菅原克巳、小熊秀雄の作品にとりつかれて詩を書き始めたという青年です。日本語で書くか英語で書くかの前に、両言語の間にある空間で詩を考える、と言うあたり、なかなかのものですね。聴衆の皆さんも一番そこに惹かれたようです。
その話を聞いて、実は我々も似たようなことをしているんではないかということです。言語ではありませんが、私は化学反応にそれを感じます。例えば呈色反応。試薬を添加された液体がじわじわと、あるいは急激に色が変わっていくのを見ていると、そこに詩を感じます。それは言葉ではありません。化学式の変化を考えたりもします。あるいは化学式をひとつの言語とすると、反応と日本語の空間で詩を考える、感じると言えるかもしれませんね。英語と日本語の間で、となると私にはできませんが、そんな反応と数式の間では同じようなことをやっているのかなと思いました。
質問もあった超満員の講演会 |
忘年会にて、ビナード氏を囲んで |
これで今年の詩人クラブの行事はすべてオシマイです。アッという間の一年でしたね。詩人クラブの皆さん、一年間ありがとうございました。来年1月13日の新年会でまたお会いしましょう!
○坪井勝男氏詩集『樹のことば』 |
2000.11.25 福岡市博多区 梓書院刊 1500円+税 |
路上
最後に 犬が横断歩道を渡ろうとした
大型トラックは唸りながら
位置についた選手のように 信号を見ている
尾を垂らし あたりを窺って渡りかける
半ば進んだところで
怯え 戻ろうとしていたが
後ろは もう車の流れに変わっている
路の真ん中で立ち竦んでしまった
灼けつくような真昼の路上
反対車線では年配の運転手が
窓から乗り出して 誘導しはじめた
いかつい顔が 諭すように犬を呼んでいる
ほどけた靴紐を直すように
路上に結ぶ男たちのしぐさ
車の流れは 戻った
首輪のない犬は傍らの電柱で片脚をあげると
街角に消えた
「ビスケット」「小さなビラ」「列車」「廃線」など日常の中に己の姿を問い質すという佳作が続いていますが、いずれも爽やかな印象が残ります。紹介した「路上」はその最たるもので、胸が締めつけられるような思いをしました。最初は「大型トラックは唸りながら/位置についた選手のように 信号を見ている」というフレーズで日常の殺伐として風景を描くのかと思いましたが、そうではありませんでしたね。「いかつい顔が 諭すように犬を呼んでいる」というフレーズでホッとしました。
4連が非常に効いています。「男たち」とありますから、「誘導しはじめた」「年配の運転手」以外の人たちもじっと待ってくれていたのでしょう。そして何事もなく「車の流れは 戻った」わけです。日本人が本来持っているやさしさを改めて知らされました。
「傍らの電柱で片脚をあげる」という犬の行為は、ユーモラスな気分ばかりでなく、日常に戻った安心感を与えてくれます。ここに読者の視線を持って行くというのはすばらしいですね。著者の略歴を拝見すると、私よりちょうど20歳上の方でした。詩に年齢は関係ないんでしょうが、詩集全体からもバランスがとれて円熟した雰囲気を感じました。そうなりたいものです。
○堀口精一郎氏詩集『神の魚』 横浜詩人会第5次ネプチューンシリーズ]T |
2000.10.20 横浜市南区 横浜詩人会発行 1200円 |
*
神の魚
空を真っ赤に染めて
台湾海峡に沈む夕陽
彼は機上無線要員だった
両足に機銃掃射を受け
知覧の基地に帰りついた記憶は
ほとんどない
ただあの時の赤い炎のような十字架
五十年たってもみる夢は
夕陽に染まった空を突っ切って
車椅子に乗っている姿
何故か逆さまに飛んでゆく
つぶれた楕円形の満月が
ひょこんと頭の下に
誰もいない季節はずれの海のように
南の空の果て
ぽつんと神の魚が浮かんでいる
*神の魚 寂しい秋の南の空に低くポツンと輝いている一等星。「みなみのうお座」のちょうど口のあたりに位置する。西欧ではこの星を「フォーマルハウト」と言い「神の魚」に見立ている。(ギリシャ神話) 日本では「みなみの一つ星」という美しい名前で、よばれている。
詩集のタイトルにもなっている作品です。「神の魚」と呼ばれる南の美しい星のもとで繰り広げられた空中戦を思い描きます。記憶の中の「何故か逆さまに飛んでゆく」は飛行機の宙返りを言っているのでしょうか。「赤い炎のような十字架」が「機銃掃射」を表現しているようで、まったく経験はありませんが臨場感を覚えます。「機上無線要員」というのは、銃を取らずに無線機に向かっている兵士でしょうから、ただ撃たれるだけの恐怖にも耐えていたんでしょうか。おそらく爆撃機クラスの軍用機でしょう。薄い鋼鈑を通して突っ込んでくる「赤い炎のような十字架」は「五十年たってもみる夢」になるんでしょうね。
この作品の登場人物は「彼」ひとりで、作者は語り部になっていると思います。淡々とした語り口が冷たいまでの詩情を感じさせます。この作品ではそれが奏効していると思いました。
○詩とエッセイ『さやえんどう』21号 |
2000.11.20 川崎市多摩区 堀口精一郎氏発行 500円 |
地理の時間/李
美子
先生は一息で黒板にウサギを描いて
皆さん これが私たちの国です
長い耳に沿って豆満江は流れ
うなじの小さな凹みは元山
ヒクヒクする鼻先には平壌
ソウルはちょうどお腹のあたり
釜山港は丸い尻尾を海に突き出します
大きな声で復誦しましょう
はじめてソウルへ向かう飛行機の中
観光地図を開いてドキリとした
あのウサギは下半身しかない
鋭利な刃で切り取られたように
柔らかな背中もうす桃色の口もない
そのとき 消え入りそうな声がして
みなさん これが私たちの国です
思わずあたりを見まわした
五十年ぶりに南と北の家族が抱き合った
この夏をずっと記憶していたい
ソウルから国境の街・新義州へ
ふたたび特急列車が走るのだという
錆ついた有刺鉄線をおし開いて
国境のむこうは はるかな瀋陽 ウランバートル
アルタイ山脈を越えて タシケント 灼熱のアデン・アラビア
いま一度 胸ときめかせたい
私たちのウサギ お腹に包帯をまかれたすがた
黒板の中 うれしくて跳びはねそう
誘拐、投獄、追放という政治的な失脚を見続けたひとりの日本人としての私は、金大中氏が韓国大統領になった時の驚きを今だに覚えています。その金大統領の歴史的な朝鮮民主主義人民共和国訪問をTVで見ていて、人類はそう見捨てたものではないなと思ったのは、この夏のことだったんですね。埒外の私でさえこの8月を感激して見ていたんですから、作者の感動は私などにも想像もつかないものだったんだろうと思います。
「あのウサギは下半身しかない」という絶望と憤り、「私たちのウサギ お腹に包帯をまかれたすがた」と感じる作者の「胸ときめかせ」る思いは、充分に伝わってきます。小さな、個人的な喜怒哀楽ではない民族としての喜びを描くのは、やはり文学者、特に詩人の役割だと思います。それを十二分に書ききった作品と言ってもいいでしょう。古来、日本では月にウサギが住んでいると考えられていました。澄んだ月の中のウサギは、お隣りの朝鮮半島の反映だったのかもしれません。
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