きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「ムラサメモンガラ」 |
2000.12.11(月)
出張で静岡県富士市に行ってきました。4年ぶりぐらいですかね、以前はよく行ってたんですが仕事の内容が変わったんでご無沙汰していました。この不況の中で、相手先の会社もがんばっているようで、久しぶりにお会いした人たちもお元気そうでした。
富士市から見る冨士山は、また格別でしたね。夕暮にちょうど赤冨士になっていました。同行した大阪出身の新入社員は、冨士山そのものを見ることに感激していて、その上、赤冨士まで見られて大喜びしていました。富士市で見る冨士山もいいもんですね、と相手先の社員に話しかけると「富士市の人間は皆、そう言います」との返答。そりゃあ、そうだ。パッと返答が来て悔しかったんで(^^;;
昔、覚えた謎かけを披露してしまいました。
若い女性とかけて、何と解く?
冨士山と解く。
その心は?
甲斐(嗅い)でみるより駿河(するが)よい!
オソマツ(^^;; *
たしか、これで合ってたよな?
○山本純子氏詩集『豊饒の女神の息子』 |
2000.3.10 東京都千代田区 花神社刊 2000円+税 |
豊饒の女神の息子
「おまえとこの かあちゃん
便所行ってから
ちゃんと手ぇ洗(あろ)とんのけ」
と嫌がらせを言われて うどん屋の息子
「アホか 洗とるわけないやんけ
うちのかあちゃんはな
歯ぁの間から きしめん出して
耳からは うどん出して
尻から そば出して売っとおんのや
そこがうまさの秘訣やんけ」
敵もさるもの
「鼻からは
何(なん)も出さへんのけ」
「鼻からはな
夏場 そうめん出しよる」
逞ましき うどん屋の息子
家の商売がらみのからかいは
逆手にとって
いちやく人気者になってしまう処世術を
これまでの人生で
すっかり身につけている様子
彼の茶目っ気が描き上げた
母親の姿には
昔々の『古事記』の中の
穀物の起源の話が見えていて
おおげつ ひ め
ここに 大気津比売の神
鼻口また尻より
くさぐさの味物(ためつもの)を取り出でて……
豊饒の女神の息子が
現代のこの校庭に
現われ出たわけです
紹介したい作品がいくつもあって困りました。やはりタイトルポエムを紹介した方がいいかな、と思って転載させていただきました。「船出前のクルーの会話」「日誌のなかのメニュー」「教室のなかの静物たち」「簡略な昼寝」「傘」「道」「届かなかった嫁さん」などなど、詩はやはり言葉の力≠セと感じさせる作品が目白押しです。できればぜひ買って読んでいただきたい。
著者は高校の先生で、これが第一詩集です。日本に新しい詩人が誕生したな、という思いを強くしています(別に詩集がないから詩人ではない、なんて思いませんけど、やはり詩集としてまとまった仕事をした方がいいと思っています)。
うどん屋の息子がすばらしいですね。こんなおおらかな子ならキレルなんてことには無関係でしょう。それに作者が『古事記』と結びつけたことで詩の深まりができました。こんな作品、今まで見たことがありません。日本、日本人、日本語に対して自信を取り戻させてくれました。17歳の本当の姿なんだろうなと思います。マスコミも一部の壊れた17歳だけをクローズアップさせないで、こういう逞しい子、それをちゃんと見ている詩集を取り上げてほしいなあ。そうすればもっと日本は健全になるんだろうな、と思います。私にとって今年一番の収穫と言っても過言ではない詩集です。
○房内はるみ氏詩集『フルーツ村の夕ぐれ』 |
2000.8.19 東京都文京区 詩学社刊 2000円+税 |
落葉樹の下で
木の下にいくと
母のぬくもりに つつまれていくようだった
なつかしく
やわらかな
晩秋の日ざしを いっぱいふくんだ葉から
ひかりのしずくが おちてくる
芽ぶき そよぎ もえて 散る
落葉の季節をかさねるごとに
大きくなってきた木
な
か
木の内部をながれる はるかな時間のように
母のなかをながれている 長い時間
たばねられていく 一年ごとのかなしみが
色をふかめていく 秋の葉のなかで ゆれている
もえつきる 葉のきわみの あざやかさ
かなしみは
かぎりないやさしさの 木もれ日となって
おとずれる人の絶えた樹下のさみしさに ひろがっていく
冬をまえに
木は 死をまっているのではない
かたい冬芽をだいて
死を のりこえようてしているのだ
微風にゆれた
そよぐ葉のあいだからみえる十一月の空は
かがやく海のようだった
最終連が印象的です。特に「木は 死をまっているのではない/かたい冬芽をだいて/死を のりこえようてしているのだ」というフレーズはいいですね。「冬芽をだ」くことによって再生するという視点は、読者にある種の安心感を与えると思います。私はそうでした。それに「かがやく海のようだった」という言葉にも明るさがあって、これから迎える冬を乗り切る力が湧いてきそうです。
前段として「母のなかをながれている 長い時間/たばねられていく 一年ごとのかなしみが」というフレーズがよく効いているのだと思います。それにしても「一年ごとのかなしみ」を「たばね」ていくという発想もすごいものです。どうも第一詩集のようですが、新しい詩人の誕生を祝福したいと思います。
○詩誌『叢生』111号 |
2000.12.1
大阪府豊中市 島田陽子氏発行 400円 |
気ぃおつけやっしゃ/八ツ口生子
人の心はころころ転がりやすいもんどす
人の口に戸は立てられまへん
奥が深こうて
神さんかてその底まで見るのに
お困りやしたどす
あたりまえどすなあ
うちらが困るのは
あの辺りは歩きにくいとこどした
人の口のような小さな穴どすけど
生き物のように大きうなって
ふと瞬きしているうちに見えなくなって
隠れたところで広がっている人の口
ぱっくり開けている落とし穴
神さんかてお困りやしたんどっせ
心ってどんな器に
入ってますにゃろなあ
人の心と、その心と裏腹に出てくる言葉。それを「気ぃおつけやっしゃ」と喚起する、おもしろい作品ですね。京都弁でしょうか、ちょっと大阪弁とは違うようですが、その効果がうまく出ていると思います。東京弁で書いたらこうはうまくいかないでしょう。方言の持っている豊かな表現にも支えられている作品です。
「人の口に戸は立てられ」ないというのは全国共通の認識のようです。私も少年のころ、親からさんざん言われたものです。そう言えば最近はあまり耳にしていません。そうやって処世術を教わってきたように思うのですが、親が子に処世術を教えない、教えられないというご時世になったきたのでしょうか。そんなことも昨今の少年犯罪増加の原因かな、なんてことも考えてしまいます。それにしても本当に「心ってどんな器に/入ってますにゃろなあ」。
○総合文芸誌『星窓』7号 |
2000.11.30
大阪市中央区 星湖舎・金井一弘氏発行 1000円+税 |
松田裕という方が「50音文」として50音にあてはめた詩(?)を書いています。こんな風です。
は 晴れの日に
ひ ヒマワリ空に
ふ 振り向いた
へ へりで見つめる
ほ 保護者のようだ (「50音花歌」部分)
「50音選手応援歌」「50音作詞歌」「50音花歌」「50音大震災歌」の4編があり、相当考えて作ったようです。言葉の訓練にはもってこいかもしれませんね。
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