きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「ムラサメモンガラ」 |
2000.12.12(火)
出張で埼玉県戸田市に行ってきました。昨日は静岡県富士市、今日は埼玉と西に東へと移動する毎日です。まあ、神奈川在住の私にはいずれも近い県ですから、それほどの負担ではないし、それが仕事の一部ですからね。
しかしマイッタのは電話。相手先の工場で、当社に収められる製品の納入前検査を行っているところに突然の携帯電話(電話ってのはいつも突然ですけど)。組内のおじいさんが亡くなったとのこと。なんと、あの元気なおじいさんが! 信じられない思いでしたけど、事実です。19時に組内の人たちが集まって葬儀の日程その他を協議するので帰ってこい、とのことでした。
自治体を構成する単位に「組」があります。所によっては「班」という言い方もしているようです。私の住んでいる所は田舎で、葬儀は組が取りしきるという慣行があります。1年交代で順番に回ってくる組長が影の葬儀委員長になって、組内の人に役を割あて、葬儀を取りし切りことになります。その組長に私が今年度あたっています。私が出席しないと協議ができないことになります。ナンテコッタ!
16時には仕事を終わりにして、うまく新幹線の接続もよくて19時には余裕で間に合いました。さっそく協議。市役所への死亡届提出・火葬許可書の受け取り役、交通整理役、葬列の鳴り物をやってくれる人への依頼役、墓堀役、受付役などを決めて20半頃には解散しました。最近は葬儀社も入るし、喪主側での手配もかなり進んでいましたから楽になりました。
10月にも組内で葬儀があって、私が組長になってこれで2軒目です。2度目ですからスムーズに事は運びましたが、運が悪いというのか、神さまが与えた試練なのか、まあ甘んじて受けるしかありません。そんなことを組内の人と話していると「俺が組長の時には3軒あったよ」という人も現われました。上には上、ということですね。
○森徳治氏詩集『戦争記』 |
1997.4 東京都葛飾区 私家版 非売品 |
上野駅前
君は小さな手で
私の服のそでにしがみついた
「おにいちゃぁん、何か食べ物おくれよう」
時、昭和二十年、秋
場所、上野駅前
私は十六、君は六才
見れば君の後ろにも
汚い服を着て目をぎらぎらさせた子供たちが
じっと私をうかがっているのだ
君はその年三月の東京大空襲で
炎と煙の下を走っているうち
父と母にはぐれたのだ
父と母は炎の奥に消えてしまって帰らなかった
君はおなかをすかしていた
君は人のあたたかみを求めていた
けれども私は君の手をそっともぎはなした
「おにいちゃぁん、何かおくれよう」
君はなおも追ってきたのだったね
アキラくん いやイサムくんだったか
君はその年の冬
上野駅の地下道で凍え死んだのだったね
「おとうさん、おかあさん、寒いよう」といいながら
泥だらけの顔で眠ったように死んでいたね
アキラくん そしてイサムくん
私は君の手をふりはらったおにいちゃんだよ
著者の第一詩集です。詩集の冒頭に(戦争の記憶が若い人たちに引き継がれることを願って)とあり、最近では珍しい、目的のはっきりとした詩集です。「T 蜂の巣−インパール作戦」、「U 鉄塊−戦艦「武蔵」」「V(東京空襲) 炎の縁どり、地獄の火の鳥、上野駅前」「W(三八式歩兵銃) 照準」「X(ガダルカナル戦) 餓島」、「Y(ハワイ空襲) この一点
1941.12.8」、「Z(神風特別攻撃隊) 雲の果て」、「[(中国戦線) 審判
1937年南京」という10編の作品から成っています。
ご自身は15歳で海軍甲種飛行予科練習生として入隊したようで、各作品の題名からも判りますように、太平洋戦争の重要な作戦を描いていて、非常に骨太な印象を受けました。紹介した「上野駅前」はそれらの中ではちょっと毛色が違っています。史実を元にした他の作品にも魅力はありますが、この作品に著者の姿勢が顕著に現れていると思って紹介した次第です。
「私は君の手をふりはらったおにいちゃんだよ」と最終連で告白することで、この作品は並の偽ヒューマニズムとは一線を画していると思います。自らも加害者であるという視点が詩集には一貫していて、読む者の姿勢をも問います。技術的にも「アキラくん いやイサムくんだったか」というフレーズが「アキラくん そしてイサムくん」に変わっていくあたりは見事です。まったくの手作りの詩集ですが、詩は作品の内容が勝負ということを改めて認識させてくれる詩集です。
○詩と評論個人誌『愚羊・詩通信』1号 |
2000.8.1 東京都葛飾区 森徳治氏発行 非売品 |
百キログラム
結婚した時 二人で体重を測ったらら
夫・二十九歳・百六十八センチ・五十キログラム
痩せ型の神経質そうな青年だった
妻・二十四歳・百六十センチ・五十キログラム
ふくよかで人のよさそうな娘だった
二人あわせてちょうど百キログラムだね
新婚の夫がいった
それから四十余年すぎた
子どもたちは結婚して独立し
二人ぐらしになった老夫婦は
また体重の話をした
夫・五十八キロ・妻・四十二キロ
二人でやっぱり百キログラムだね、と夫
痩せた妻はいった 八キロ減ったのは
わたしがどれだけ苦労したかの証しだわ
うむ、と夫は沈黙した
うまく言い返せないのが悔しく 胸の中でののしった
口だけは達者になったものだ
妻は夫の横顔を見ながらつぶやいた
この人と旅をしたんだわ
たいした旅でもなかったような
長い長い旅でもあったような
「たいした旅でもなかった」とは決して思えませんが、そう書けることはそれだけの年輪があるからだと思います。結婚十数年、50そこそこの私などでは言えない言葉です。それにしても「うまく言い返せないのが悔しく 胸の中でののしった」感情はよく理解できます。先日、結婚式のスピーチで「女は変わるゾ」と新郎向けに言ってやったのですが、それは実感です。他の人のスピーチにも私の発言が取り上げられて賛同していましたから、男は多かれ少なかれ同じようなことを思っているんでしょうね。
この個人誌は前出の森徳治氏のものです。「愚羊」とは森さんの水墨画での号だそうです。「詩と評論」とありますように、評論が3/4を占める個人誌です。創刊号のこの号では村松武司の「海のタリョン」を取り上げていました。村松武司という詩人の仕事は浅学にしてほとんど存じ上げていないのですが、中に呉林俊の名が出てきて驚きました。呉林俊とは会ったことはありませんが『山脈』代表の筧槇二さんから話は聞いていましたし、やまぐち・けいさんの『風の伝説』で概要はつかんでいました。詩人の世界のつながりを感じさせます。
○詩と評論個人誌『愚羊・詩通信』2号 |
2001.1.1 東京都葛飾区 森徳治氏発行 非売品 |
松葉牡丹
足元に一輪
赤紫の松葉牡丹が咲いていた
その時は戦争のさなか
私は十六才の海軍の少年兵で某飛行場にいた
数分前
米軍機の投じた百キロ爆弾が
私の傍らで炸裂したのだ
転瞬掩体壕に飛び込み
辛うじて無事を拾ったが
しばらくして陽のあたる外へ出た私の眼を刺したのは
壕のコンクリートの壁の付け根に散乱している
鋸の刃のような爆弾の破片だった
その一つを手にとった時
私は足元に松葉牡丹の花をみつけた
花は燃える色でりりしく咲いていた
花の美しさに思わずはっとした、と書けば嘘になる
その時爆弾の鉄の破片も 花びらも
等価値の物質でしかなかった
自分の命でさえ
つかの間生き延びたにすぎないように思われた
後になって私は時々その花を思いだした
花は
時が経つにしたがって色彩を増していった
あの時の松葉牡丹の花は本当にりりしく美しかった
直接の戦争体験を描いた作品を紹介します。「その時爆弾の鉄の破片も 花びらも/等価値の物質でしかなかった/自分の命でさえ/つかの間生き延びたにすぎないように思われた」がポイントだと思います。「等価値の物質」という価値観が作者の根底にあると、ここまでの3冊を拝見してそう思いました。そして詩人としての目が「あの時の松葉牡丹の花は本当にりりしく美しかった」と書かせるのではないでしょうか。
今号の評論は戦後文学私記と題して「加藤富夫論−崩壊の風景」です。加藤富夫という作家も浅学にして存じ上げていませんが、芥川賞候補になった『玩具と兵隊』という作品に触れて、森さんは次のように述べています。
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私たちは戦争の暴力を被害の側から告発したが、暴力は私たちの内側にもあったはずであり、私たちは、その内なる暴力を追跡し、これを相対化する方法を、国民というレベルでは、ついに打ち立てることができなかった。これが現在、戦争について国民の考え方の分裂している理由である、と私は考える。
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ここでは加害者でもあった「内なる暴力を追跡」せよと述べており、これも森徳治という詩人の重要な視点だと思います。それを「国民というレベル」にまで高めよという指摘は、今の日本にあっては特に考えなければならないことだと思います。その具体化として詩集『戦争記』、個人誌「愚羊・詩通信」を世に問うたということは大きな仕事をしていると言ってよいでしょう。ここまでの三冊を拝見して、繰り返しになりますが、骨太な詩人の出現に心強い思いをしています。
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