きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画「ムラサメモンガラ」




2000.12.15(金)

 職場の忘年会で箱根湯本に一泊していました。昨年は鼾のひどい人と一緒で、夜中にうちに帰って寝ましたが、今年はそんなこともなくおだやかな(^^;; 忘年会でした。しかし、このところ忙しかったので二次会、三次会は欠席。22時にはおとなしく寝てしまいました。
 おもしろかったのはコンパニオンの対応でしたね。いつもなら宴席に出たコンパニオンを連れて呑みに行くんですけど、昨年からやめています。理由は、つまんないから。彼女たちはどういう訳か一緒に呑みに行ってくれる男を見つけだす能力があるようで、必ず誘われます。花代は90分でひとり1万円ほど。それに呑み代は客持ちになりますから、2〜3人連れて行くと4、5万円はとんでしまいます。長年、箱根で忘年会をやる時はそうするもんだと思っていましたが、バカらしくなってやめた次第です。
 で、コンパニオンの対応の何がおもしろかったかと言うと、昨年は断わってもしつこく誘いを受けましたが、今年はあっさりと引き下がったことです。単なる派遣会社の方針の違いか、コンパニオン個人個人の考え方の違いか知りませんけど、ちょっと拍子抜けしました。でもまあ、日頃の睡眠不足が解消されたから良しとしましたよ。




近藤由紀子氏詩集『水の辺り』
mizu no hotori
1999.7.10 東京都豊島区 国文社刊 2500円+税



コップ一杯の水の重さを
ついに計れなかったことがある
直径五センチほどの表面から
絶えず蒸発するものを計り続けて
デジタルの数字が静止しない

以来 何を載せても 透明な秤の
目盛りは常に流れようとしている
どこまでも軽くなろうとしている

 「デジタルの数字が静止しない」とありますから、おそらくメトラー社や島津製作所あたりの精密電子天秤のことを言っているのだと思います。mg単位で計れる電子天秤はそのまま「絶えず蒸発するものを計」るのはちょっと無理ですね。蓋をする必要があるかな。
 まあ、そんなことはどうでもよくて、詩集を読みすすむと作者は理系の人のようで、同志を得たような気になってきます。「自画像」ではオストワルト色相表、「プログラム」では遺伝子、「啓示」でも色相、「上皿天秤」では学術か技術会議、「水の辺
(ほと)り」では幕張メッセが出てきて、なにやら同業者の作品を拝見している気分になってきました。
 理系の現象の中にも詩はある、というのが私の持論ですが、作者も同じことをお考えになっていると思います。「絶えず蒸発するものを」見ていて、物質は「どこまでも軽くなろうとしている」ことを知る。実はこれは人の心も同じではないのか…。人間を表現するのが文学ですから、その人間が関わっている理系にも詩があるのは当然なんですけどね。心強い詩集に出合いました。



詩誌REJOICE1号
rejoice 1
2000.7.1 茨城県ひたちなか市
REJOICEの会・武子和幸氏発行 200円

 汽水域/近藤由紀子

霧雨の川面を眺めて
多摩川を渡っていった

はるかにかすむあの辺りまで
水は二層になって流れているという
比重のちがいからか
上の層には淡水 底には 河口から
しなやかな舌のように伸びている海の水

あのとき何の用件があったのだろう
それから 心の底に重く揺れるものを抱えて
駅のビルの最上階へ
エスカレーターで上がって行った
湿った傘を引きつけて
儀式のような姿勢で立って

賑やかなフロアーごとに折りかえし ゆっくりと
ゆるやかな傾斜で運ばれて行く
揺らさないように 傾けないように
内なる重みも

心細い浮上に 下りのラインがすれ違う
揺りかえされて
意識が錘のように落ちていく
わたしのどこかで小さく波が立ち
届くはずのない潮が匂って

霧の流れる空のほとりで 釣り人は深く
 糸を垂れている
いちじるしい塩分 砂の混じり揺れる海水
内なる汽水域には 鰭をたたんだ魚も
ひんやりと痺れて浮き沈む
糸の先に何かが光り 高く引き上げられて

いつしか窓の外は強い雨足
はるか下の舗道に 傘が開いていく
汽水域をしのばせた身体をこんもり覆って
街の流れはすこし水位を上げるだろう
多摩川の流れのように
傘の列がさざ波のように揺れている

 「内なる重み」を「汽水域をしのばせた身体」が持っているというとらえ方は見事です。雨と「駅のビルの最上階」を結び付けた風景も、作品の効果を高めていると思います。少し憂鬱な雰囲気も伝わりますが、むしろ乾いた抒情を感じます。前出の詩集『水の辺り』でも同じことを感じましたので、作者の持っている体質なのかもしれません。作者は私と同じ生年ですから、この年代が持っている特徴と言えるでしょうか。
 さて「あのとき何の用件があったの」でしょうか。それは問題ではなく、そういう回顧が誘発した作品として見るべきでしょうね。逆かもしれません。回顧があって「あのとき何の用件があったのだろう」とふと思う。そこに詩的な感覚を覚える作者は、本質的な詩人であると思います。理系と文系の双方に立脚しているようですので、まさに「汽水域」は本領発揮の作品と言えるかもしれません。



詩誌『東京四季』79号
tokyo shiki 79
2000.12 東京都八王子市
東京四季の会・山田雅彦氏発行 500円

 天の懐/三瀬千秋

東海地方では豪雨に怯えているという
雨の日が続いた後の空は澄みきっている
来春を彩る花畑は
トラクターによって手入れをされているだろう
深い痛手をおわせて
常に繰り返す崖崩れや河の氾濫の
えこひいきの台風は再生している

東京の空では太陽が薄朱さを早く消して
私は安心し切ってまどろんでいる
天の懐から
満月を浮かばせて

 「えこひいきの台風」というのはおもしろい表現ですね。通常、ひいきは良い意味で使われるのですが、台風のひいきとなると逆です。決して好ましいものではありません。それを逆に使っているのですから、第2連が生きてくるのだと思います。すなわち「私は安心し切ってまどろんでいる」ところへ「えこひいきの台風」が来るゾ、というふうにとらえました。
 それで第1連の前半部分も生きてきます。他所ごとのように「東海地方では豪雨に怯えているという」という表現が、実は「私は安心し切ってまどろんでいる」へ掛ってきているのではないでしょうか。ちょっと深読み(あるいは的外れ)かもしれませんが、そんな読み方をしました。



個人誌『パープル』17号
purple 17
2001.1.16 川崎市宮前区
パープルの会・高村昌憲氏発行 非売品

 お母さん/白川貴衣

それは、悪魔の化身
それは、エンマ大王の生まれかわり
それは、地球外生命体
それは、くまんばち

だけどお母さん
それでもお母さん
でも………
やっぱりお母さん

 編集後記で作者はパープル賞青の部門(17歳以下対象)の受賞者、とありますから、ずいぶんと若い方のようです。小学校高学年か中学生ぐらいでしょうか。それにしてもお母さんをすごいとらえ方をしていますね。「くまんばち」では思わず笑ってしまいました。なるほどうるさいし、刺してくる。世のお母さんを見事にとらえていると思います。
 第2連では女の子らしく「やっぱりお母さん」と大事にしているようで安心しました。好きの逆説として「地球外生命体」なんて発想もしているんでしょうね。新鮮な視線に感心しました。



 
   [ トップページ ]  [ 12月の部屋へ戻る ]