ょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画「ムラサメモンガラ」




2000.3.1(水)

 3月という声を聞くだけで、なんか、暖かな気分になりますね。今日は少し暖かかったせいもあって、よけいに感じます。
 そんな春にふさわしい、3月3日発行の詩集から紹介していきましょう。


桜庭英子氏詩集『リバーサイドの虹』
riverside no niji
2000.3.3 東京都豊島区 国文社刊 2500円+税

 絹の里

清かな思い川から五キロあまり隔てた地に
もうひとつの流れがあった

鬼が怒る川という激しい名前の水の路は
ほんとうは絹の川ではなかったのか
セキレイの遊ぶおだやかな鬼怒の水辺

女の生まれた里は
それらふたつの川に挟まれていた
ゆかりの町の風景なのに わたしには見えない
その界隈だけがぼんやりと靄って
影絵のような暗い森にいつも遮られてしまう

蚕を飼い機を織るならわしの
銀色の糸を紡ぐ集落は秋のように淋しい
忍従の女たちが歩いたシルク・ロードは
透きとおった絹の衣がさやさやと行き交う里だ

つくし
(注1)に絡ませた真綿の端から糸口を作り
キュッキュッと泣かせて糸を操る
おぼけ
(注2)一杯に溜った絹糸を抱えて
泉下に降りていったのは神無月の日暮れ

一生かけて何反紡いでも
紡いだ着物を一枚も纏えなかった女
いまごろ天の川のほとりで
さざなみ織りを織っているだろうか
水を潜るほど色あざやかに冴えわたる
結城紬のみやびの糸で

 注1 つくし 竹にキビガラを付けた糸紡ぎの器具。
 注2 おぼけ 紡いだ絹糸を入れる丸い籠。

 「鬼怒川」は「絹川」ではないか、という発想にまず注目しました。おそらくそうなのかもしれませんね。歴史的には「鬼怒川」が先にあって、その後で絹の時代になったのでしょうが、逆だったらいいな、という思いもあります。
 それにしても「鬼が怒る川」を「ほんとうは絹の川ではなかったのか」と感じる作者のやさしさには感激します。おそらく「女」というのは母上ではないかと想像しますが、それ故のやさしさでしょうか。
「鬼怒」と「絹」の対比が見事な作品だと思います。


個人詩誌『思い川』7号
omoigawa 7
2000.4.1 埼玉県鳩ケ谷市
桜庭英子氏発行 非売品

 ひまわり

いまにも はじけそうな夏だった

ひまわりの種を炒って
しばしの空腹を満たす
空襲警報のサイレンのなかで
香ばしい匂いに
ひととき満たされた古い家

暑くて長かったあの頃が
耳元でパチンとはじけると
陽をしたたらせた父母の声が聞こえて

ひまわりの黄色い大きな顔がぐらりと傾く

ほんの一粒の熱いしあわせが
いまごろになって
後ろから そっとさしだされるなんて

 こちらも桜庭さんよりいただきました。「陽をしたたらせた父母の声」がいい雰囲気を出していると思います。ひまわりの種が食べられるとは、どこかで聞いたことがあります。あるいは私も食べたことがあるのかもしれません。
 この作品の優れているところは、最終連だと思います。正直なところ、きちんと説明するのは難しい連なんですが、説明を越えて、いく通りにも考えられて、それが良いと思います。私は単純に、過去の小さな幸せが今になって思い出される、と受け取ったのですが、それでは単純すぎると思っています。現代に対する反語としてとらえた方が良いのかもしれませんね。



 
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