きょうはこんな日でした【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「ムラサメモンガラ」 |
2000.3.24(金)
職場の先輩が定年を迎えるので、祝賀会がありました。最近は定年者が多く、毎回祝賀会をやっていては大変なので、本人の希望でやるかやらないかを決めています。この方は長く総務畑を歩んできて知り合いも多く、面倒見も良かったので、まわりからやれと言われたんでしょうね。150名ほどが集まった盛大な祝賀会になりました。退職した上司や同僚も駆けつけて、人柄が思われます。
私にとってこの会の意義は、5合も呑んだことです(^^;;
白なんとか、という名前の樽酒があって、真っ先に飛びついて呑みましたよ。白という字が入った酒は、おうおうにして甘く、まずいものなんですが、これはうまかったですね。樽酒を檜の升で呑んだからかもしれません。いつもなら3合くらいで呑めなくなるんですが、とうとう5合までいってしまいました。おそらく自己記録更新だと思います。回りの人もびっくりして「お前、そんなに呑めるのか!」と言っていましたが、私自身が驚いています。あいつは呑ン兵だと評判がたちそうですけど、まあ、いいか。誰にも迷惑はかけてないもんね。
○詩誌『都大路』27号 |
2000.3.10 京都市伏見区 末川茂氏発行 500円 |
樹齢/すえかわ
しげる
こぢんまりとした寺院は
門前のけやきの老木を残し
戊辰の役で焼討された
ワズラ
国を煩い民の幸福を願う
志は同じくして意見の違いが
血気にはやり多くの命を失ってしまった
村人は敵・味方なく
墓を建て香をくゆらせた
時代は路傍の紙芝居のように
一枚一枚たわいなく捲られた
いつしか墓地は整理され駐車場に
老木の落葉で車を汚すと
苦情で根元から切り倒された
切株は鮮やかに二百年の年輪を見せた
そのういういしい色合いに
冬陽があたる
気まま放題の人間共よ
この切口に耳を当て聞きたまえ
樹齢二百年はまだ若木だ
志し半ばで切り倒された無念の叫びを
多くの問題を含んだ作品です。主題の「気まま放題の人間共よ」はその通りだし、価値について考えさせられます。数百万の車が落ち葉で汚れるのは嫌だ、という価値観。200年の歳月をかけても人間には樹木ひとつ作れないのに、それを切り倒してもいいという価値観。人間が自然界から奪取して作り上げた合成品の見本のような車が、人間の手など必要ともせず生きてきた樹木を切り倒すという図は、なんとも象徴的ですらあります。
でもその人間は「敵・味方なく/墓を建て香をくゆらせ」ることもするのです。いい側面を突いていると思います。ここは導入部ですから、作者にはおそらくその意図はなかったろうと思いますが、効果的なフレーズと思います。
主題と離れますが、私が気になった部分「志は同じくして意見の違いが」という点です。薩長と会津は志が違うのです。薩長はクーデターを起こして政権を奪おうとしたのに対して、会津にはその気はありませんでした。恭順書まで薩長に出して内戦をやめようとしたのです。それを無視して破り捨て、強引に会津まで攻め入ったのが薩長です。ですから「志は同じくして」いません。
一般には末川さんと同じように戊辰戦争をとらえていますから、教科書の回答としては正解です。明治以来、意図的な戊辰戦争の位置付けを政府はやってきました。百数十年前の政策が今だにうまくいっていることに驚くしかありませんね。しかし、私のような歴史認識をしている人も多くいますので、できればご自分でお調べになって戊辰戦争を扱ってほしかったと思います。
表現が難しいのですが、末川さんに苦言・苦情を言っているつもりはありません。日頃思っている戊辰戦争に対する思いがあったにすぎません。末川さんの作品をたまたま自分の思いの材料にしてしまいました。また、私自身が他の歴史に対してきちんと調べているかというと、そんなこともありません。自戒を込めて発言する次第です。
○個人詩誌『色相環』5号 |
2000.3.20 神奈川県小田原市 斎藤央氏発行 200円 |
メロン日和
少女から女へ
日盛りに熟れていく果実を
持て余している おまえ
薄緑色の流行のスカートから
はちきれそうな太股が覗いている
けだるく暑い夏も
おまえには
メロン日和なのだ
果汁のように滴る汗さえ
少女とは違う不思議な匂いを
発散させている
大人びた言葉遣いは
あどけなさの残る顔には
まだ少し不似合いなのだが
背伸びしてみたいのだ
無理に逆らって
ほろ苦い若さを
弾けさせてみたいのだ
その丸いふくらみに
今は 誰も手を触れないで
まして抱えたりしては困る
甘いメロンの香りを放ってはいるが
食べ頃になるまでには
もう少し時間がかかる
おそらく作者がご自身の娘さんをご覧になっての作品だと思います。正直なところ、冷静な観察に驚いています。私にも中2になる娘がいますが、こんなに冷静には見られません。どうしても女として意識してしまいます。昨年までは一緒にお風呂に入ろうと誘われていましたが、私の方から断わっているほどです。(冗談じゃねーや、娘と一緒に風呂なんか入って何がおもしろいんだ)と内心思っているんですよ(^^;;
そんな親ですから、本当に斎藤さんの冷静さには驚かされますね。だから「今は 誰も手を触れないで/まして抱えたりしては困る」というようなフレーズもスッと出てくるんでしょうね。いいお子さんに育っているんだろうなと想像します。父親の内心をここまできちんと出した作品は無いと思います。
○湧太詩誌『天気あめ』2号 |
1999.12.16 栃木県茂木町 彩工房発行 非売品 |
音
記憶とか
時間とか
の 中で
石になっている
昔から
そうで
あった
ように
高いところでなく
地表をふく
風の音をきいていた
ああ、人生とはこういうものなんだな、と納得させられる作品です。生きているとは「記憶とか/時間とか」にすぎず、己は「石になっている」にすぎないのだ。風の音さえ「高いところでなく/地表をふく」音をよしとする。哲学的な、示唆に富んだ作品だと思います。良い詩は短い、そんなことも言いたくなるような作品ですね。
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