ょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画「ムラサメモンガラ」




2000.4.7(金)

 日本詩人クラブの理事会がありました。詳細は後日『詩界』で公表されますので、ここではトピックスのみを。日本詩人クラブのアンソロジー『日本現代詩選』が30号になり、今年は創立50周年記念号として発刊されます。その参加人数が報告されました。現在のところ350名ほど、最終的には400名になるだろうとのこと。現在の会員・会友は計800名ほどですから、半分の方に参加していただくことになり、一安心です。ありがとうございました。
 とは言っても、私自身、理事になったから関心を持っているわけで、それ以前は一度参加したかどうか…。心もとない状況です。入会して10年でこのていたらくですから、強く言える立場ではありませんが、会員・会友の皆さん、なんかあったら積極的に参加してくださいね。理事になってようやくその辺の重要さが判った次第ですけど…。親睦団体とは言え組織ですから、組織力が問われる場面では協力することが大事ですね。よろしくお願いいたします。


詩誌『饗宴』23号
kyouen 23
2000.4.1 札幌市豊平区
林檎屋・瀬戸正昭氏発行 500円+税

 日本詩人クラブの会員でもある瀬戸正昭さんと、村田譲さんのお二人から同時にいただいてしまいました。お気に留めていただいてうれしいのですが、私に二冊はもったいないですね。一冊は『山脈』同人にでも差し上げますが、できれば調整していただければと思います。同じ郵送料を使うなら、もっと別の方にお贈りした方が効率的でしょう。お願いいたします。

 檢死/新妻 博

禮装の男がエニシダの下に
横たわっている
たぶん死後二日ぐらい
永い倦怠のあとの
ブックスフーデのトッカータが
鳴り渡る
冷えたスープの一皿に
シャンデリアの光彩が浮かんでいる
私にはわたしの丸太小屋が
残されていて
女には胎内をさかのぼるサヨリの
群れがある
ガス燈を点けて巡る老人が
石畳をコツコツと
外科医は手速く
すべての音楽史を消そうと
手術室のカーテンを引く

 浅学にして「ブックスフーデ」が判りませんでした。おそらく音楽史上の人物だろうと思います。手持ちの辞書には出てきませんでしたから、音楽関係の専門辞書でないとダメなのかもしれません。ここでは音楽史上の人物として鑑賞させていただきました。
 時は18世紀か19世紀、「檢死」「禮装」という旧字使いが雰囲気を出していると思います。場所はヨーロッパ北方。「エニシダ」の北限がわかりませんが、豆科の落葉低木と辞書にはありますから、それほど南方ではないと解釈します。ポイントは「わたしの丸太小屋」にもあると思うのですが、「ブックスフーデ」との関連で考えないといけないのかもしれません。その関連が判らないので、ここでは雰囲気だけでとらえるしかありません。
 もうひとつのポイントは「女には胎内をさかのぼるサヨリの/群れがある」というフレーズだろうと思います。「胎内をさかのぼるサヨリ」は何を指すのか、解釈が別れるところでしょうね。私は単純に女性性としてとらえました。
 最終の「外科医は手速く/すべての音楽史を消そうと/手術室のカーテンを引く」というフレーズは素晴らしいと思います。タイトルの「檢死」と「ブックスフーデのトッカータ」がここに収斂していて、作品としての引き締め効果があります。このフレーズに惹かれたというのが正直なところです。
 ろくに音楽も知らないで、この作品を紹介するのは不遜な気もしますが、格調の高さと最終の3行に惹かれました。私の解釈の間違いをご教示いただければうれしく思います。


森口祥子氏詩集『終りの冬』
owari no fuyu
2000.4.4 横浜市西区
神奈川新聞社出版局刊 2000円

 V部構成になっています。T部は精神科医としての患者を診る眼、U部はスペインその他を旅行しての紀行詩、V部はそれ以外の作品という構成です。その中で私は特にT部に惹かれました。

 ある病棟で

<あの人はエイズかもしれない>
<いや、エイズらしいよ>
<そう、エイズだそうだよ>
うわさはうわさを生んで深く静かに
しかし確実なスピードで
病棟内に拡まっていった

<あの人を退院させて下さい>
<同じ病棟で治療させないで下さい>
<食器の消毒はどうなっているんですか>
患者の代表と名のる数人は
病院側わ抗議する
一歩も後へひかぬ強い口調で
うわさの病人を
院外へほうり出そうとしている

すべてを受け入れ
今あるすべてを駆使して
どんな病とも対決しなければならない
病院は 生きてあることの最前線

不確かなことを不確かなものと
認めることを許さない
きれい好き社会
健康と病気の共存は
どこまで許されるのか エイズであること
社会的な死は
社会全体の自立のために
社会としてどう対処できるのか
エイズによって試されている
人類が滅びにむかう恐れをはらんで

<あの人はエイズかも知れない>
<あの人もエイズかも知れない>

 この作品は重いテーマだと思います。「社会としてどう対処できるのか/エイズによって試されている」という指摘はまさにその通りで、私も試されているしあなたも試されているのです。さらに私たちの子供の世代はもっとはっきりと試されていると言っていいでしょう。
 私の勤務する会社には付属病院があります。そこでも一時問題になったことがあります。社員の血液を定期検診のたびに調べているわけですから、その気になれば誰がエイズか把握することができます。密かに調べているのではないか、という疑問が起きました。会社と病院側の説明で、エイズに関しては一切調査していないという回答があり、それで落着しました。
 しかし、これは裏を返せばエイズに対する偏見の現れです。他の病気でも感染するものはいくらでもあるのに、ことエイズに関しては白眼視しているわけです。私自身も仮に降りかかってきたとき、どう対応するかは自信持って言えるわけではありませんが、客観的に見てエイズのみを白眼視することは問題があります。そこをこの作品は突いていて、考えさせられます。
 言い方が難しいのですが、健康と死についての社会的な概念が定まっていない状況が、今日の問題を引き起こしていると思っています。健康と死はどちらも人間や生物にとって必要なものです。それがあまりにも健康だけが重視された結果だと思います。この作品でも「きれい好き社会」「健康と病気の共存」と指摘しています。努力をするな、という意味でなく、どんなに努力しても生物には死があるという前提に立った思考を前面に出す必要があると思いました。


詩誌『よこはま野火』38号
yokohama nobi 38
2000.4.1 横浜市神奈川区
馬塲晴世氏方・よこはま野火の会発行 500円

 ひまわり/浜田昌子

 私の心配していたとおり
 うちの人腐敗していたの
女は受話器の中で泣いていた

妻と四人の子供を捨て
愛人のもとに走った男は
定年後はアパートの小さな部屋で
独り暮しだったという

猛暑の続く日
変死の男を確認した女は
 うちの人胸に手を当てて眠る癖があって
 そのままの姿だったと
恨み続けてきたはずなのに
うちの人と呼んでむせんでいる

病みがちな女の薄い胸に
亡骸となって抱かれ
三十五年ぶりに帰宅した男を
広い庭に一列に並んだひまわりが
うつむいて迎えた

 破綻のないまとまった作品です。ご自分のことではなく知り合いの女の出来事ですから、冷静に受けとめられた結果、破綻なく仕上げることができたのだろうと思います。それはそれで大事なことで、作品としてどうかという問い方をしなければなりません。その意味でうまく仕上がっています。特に終連がうまいと思います。
 どうして男が「妻と四人の子供を捨て/愛人のもとに走った」のかを考えることは、この場面では不必要でしょうね。「恨み続けてきたはずなのに/うちの人と呼んでむせんでいる」ことが重要と作者は考えたのだろうと思います。男の私としては、そういう女性の精神構造が判るような気もしますが、本質のところでは理解できていません。私自身、妻子を捨てた経験を持っていますから、逆の立場で考えなければいけないのですが、今だにまとまりません。そんなことも突きつけられた作品でした。



 
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