ょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画「ムラサメモンガラ」




2000.4.15(土)

 日本ペンクラブでご一緒している沼津の開業医・望月良夫さん主宰の「沼津落語会」に行ってきました。真打は桂文枝、前座は忘れましたがたぶん柳家花緑で良かったと思います。もう3日も経っていますから(4/18に書いてます)、内容も思い出せず(^^;; ずいぶん笑って拍手した覚えがあり、嫌な印象がまったく残っていませんので、楽しかったんでしょうね(^^;; 落語家の皆さん、望月さんごめんなさい。今度はちゃんとメモって忘れないようにしておきます。
 それより驚いたことは、国道246号線のバイパスが完成していて、ずいぶん早く沼津に着いたことです。いつもは呑み会が付属しているので電車で行くんですが、この会は呑み会なしなのが判っていましたから車で行きました。片道1時間半で計算していました。しかし立派なバイパスが御殿場〜沼津まで完成していて、神奈川県西部の自宅から1時間で行けました。うれしい誤算です。
 でもね、こと道路に関しては喜んでばかりでいいのかなと思っています。30分早くなっても個人としてはあまり影響がありません。経済的には大変な違いなんでしょうが、バイパス近隣への排気ガスの影響や自然へのダメージを考えると、複雑な気持ちになります。積極的に反対も賛成もする気にならず、とりあえず今は、そういう気持ちを持つことだけでも重要だと思うだけです。


季刊詩誌『舟』99号
fune 99
2000.4.15 高知県高知市
レアリテの会・西一知氏発行 800円

 4/14の『猟女犯』出版記念会で遠山信男さんよりいただきました。遠山さんは詩の暗唱で有名な方で、私も何度か長いみごとな暗唱を拝聴しています。当然、私は存じ上げています。遠山さんは私のことなどご存知ないとばっかり思っていましたら「村山さん、これ」とおっしゃって、わざわざ持って来てくださいました。驚いて、次にうれしくなりましたね。単純と言えば単純ですが、覚えてくださっているというのは、うれしいものです。

 まなじりを決して(その一)/岡崎 功

断酒か
アル中阿呆の節を貫くか

おかざきのおんちゃんは
まなじりを決して焼酎のコップを取る
手の影が少しふるえている

なんぼ言うたち
朝っぱらから焼酎かよ
まっこと ちっと えい加減にしいよ

ぬかすな

 おもしろうて、やがて悲しき、ですかね。よく理解できるつもりです。私も酒、大好きなんです。アル中にはなっていない(と思います)ですけど、アルコール依存症と自覚しています。幸い、身体が大酒呑み用にはできていないようで、そこそこの量で受け付けなくなります。ありがたいことです。
 朝から呑むのは旅行した日か、何も予定のない休日に限られています。きちんと仕事には行ってます。帰ってきて詩人団体の仕事やら自治会・PTAの仕事、HPのアップなどが済んだら、夜10時か11時頃からは酒を呑む時間に決めています。本を読んだりメールを見たりしながら呑む酒は、最高の贅沢ですね。その時間が楽しくて毎日生きているようなものです。
 ですから「おかざきのおんちゃんは」「朝っぱらから焼酎」なのも判ります。朝から呑める境遇の人は呑んだらよろしい。うらやましい限りですけど…。「まなじりを決して焼酎のコップを取」ってるんだから、他人さまがとやかく言う筋合いではありません。2行も空けて「ぬかすな」という気持ち、よく判りますね。うれしい仲間を見つけた気分です。でも、おかざきのおんちゃん、焼酎もいいけど、日本酒もうまいのがありますよ。


詩誌POETICA24号
2000.1.20 東京都豊島区 中島登氏発行 500円

 三本のグリッシーニ/中島 登

しあわせは三本のグリッシーニ
しあわせは一個のピクルス
しあわせは一杯の赤ワイン
そしてしあわせは一度だけの愛のしるし

そんなことを思いながら
サンテミリオンを味わうテラス・カフェ

わたしは仕事を辞めて
また新しい仕事を始める

人生は一つでは足りない
誰だって人生を二つも三つも
欲しくなるものだ

人は巨万の富をしあわせと思いこんでいる
それは間違いだ
しあわせは三本のグリッシーニ

 中途半端な理解で書くのは失礼なのですが、気になる作品なので紹介してみました。浅学にした「グリッシーニ」と「サンテミリオン」が判りません。うちにある辞書全てのあたってみましたが、載っていませんでした。「グリッシーニ」はイタリア語のようで、おそらくアルコール類か、なにか飲料、それも三本とありますから壜状のものだろうと解釈しました。「サンテミリオン」は英語。直訳すれば聖なる100万ですで、場所は「テラス・カフェ」ですからコーヒーか紅茶の類い。そういう前提で鑑賞してみました。
 ポイントになるのは三連目です。事実、仕事を辞めたかどうかは判りません。それより新しい仕事への意欲がこの作品全体に及ぼしていることです。この連があってこの作品が成り立っていると思いました。この連が無いと、ああそうですか、で終わってしまいかねないので、重要な連ですね。そういう意味でもポイントを三連目に持ってくるのは珍しい。しかもそれが構成の上からも成功していると思います。三連目でなければ駄目ですね。こんな書き方もあったのかと、勉強させてもらいました。
 注:四連目の「人生は一つでは足りない」は「人生いは一つでは足りない」になっていましたが、ミスプリと判断して直させていただきました。


詩誌POETICA25号
2000.3.20 東京都豊島区 中島登氏発行 500円

 この号ではあとがきにあたる部分の「電脳時代の文学者は…」という文章について紹介します。石川九楊氏が「文學界」2月号に載せた「文学は書字の運動である」という文への反論です。私は石川氏の文を直接読んでいないのですが、パソコン、ワープロでの執筆を批判しているようです。それに対する中島さんの反論は次の通りです。

 「手書きに固執しているひとは、原稿用氏の桝目を埋めてゆくことに一種の誇りと快感を味わっているようだ。それに反してパソコン利用者は、パソコンの新しい機種を自慢する傾向にあるように思われる。
 だが、手書きとパソコン使用の優劣を比較しても意味のないことだ。石川某とかいう書家が何と言おうと、便利なものを使いたい人は使えばいいのであって、使いたくない人は使わないで居ればいいのだ。何や彼やと言われる筋合いではないのだ。作家であれ詩人であれ、その作品の質が問題なのであって、手書きかパソコンかは、なんら関係のないことなのである。(以下略)」

 「文學界」を読んでないから批評する立場にはありませんが、パソコン使用を批判しているのが事実だとすると、中島さんの反論はもっもだと思います。別にパソコンを使ったからといって石川氏に迷惑をかけているわけでもないし、法律に触れているわけでもないから勝手にさせてよ、と私も言いたいですね。
 それより気をつけなければいけないのは、「パソコン利用者は、パソコンの新しい機種を自慢する傾向にあるように思われる。」という指摘です。これはその通り。甚だしいのはパソコンを使ったことのない人をバカにする傾向があること。これは心しましょう。使うのも使わないのも自由。使えるからといって、別にエライわけでもなんでもない。テレビやビデオの操作ができる人をエライと思わないのと同じですからね。



 
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