ょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画「ムラサメモンガラ」




2000.5.1(月)

 メーデーですね。連休の真ん中で、集会をやると組合員からの評判が悪いそうです。私も一組合員としては大きなことは言えないんですが、動員がかからないと行きません。動員がかかれば毎年でも行きますが、そうでない場合は行きません。つまらない演説を聞いているよりは、うちにいた方がいいですからね。いただいた本を読んで、見当違いな感想になっても、その方が自分のためになるなぁ。
 メーデーを4月にやるか、という案も出ているそうです。なに考えてるのかな、と思います。メーデーは5月1日に昔から決まっているんです。エイプリルデーなんて、エイプリルフールじゃあるまいし(^^;;
 いっそのこと国民の祝日にしちゃえばいいと思っています。みどりの日をどうのこうのやるよりは、労働人口の大半が労働者なんだから、その方が意義がありますね。社会党が政権を執ったときにやっちゃえば良かったのにね。国民の祝日にして、行事は無し。もちろんやりたい人は集会を持てばいい。動員で嫌々行くよりは、その方がみんな感謝すると思うんだけどなあ。
 まあ、そんなことを考えているよりは、鈴木比佐雄さんからいただいた4冊の本を読んだ方が意義深いですね。メーデーさぼった分、じっくり読まさせていただきます。


鈴木比佐雄氏詩論集          
『詩の原故郷へ 詩的反復力U 1993-1997
shi no genkyo e
1997.12.15 宮崎県東諸郡高岡町 本多企画刊 2625円

 優れた詩論集をまた論ずるなんてことは、おこがましいことです。私には論なんてものは無くて、このHPも感想の塊という位置付けです。そういう前提で書かせてもらうと、軽い疲れを覚えた、というのが実感です。それは鈴木さんの論の根底にある哲学・哲学書を私が読んでいないことに起因しています。もちろん簡単な哲学紹介はあって、それを手探りに拝見していくのですが、こちらが読んでいない弱みに常につきまとわれ、それが軽い疲れとなったのだと思っています。これを機会に哲学もちゃんとやらなきゃ、と思うのですが、仏教で言えば「般若心経」程度しか読めない頭でどこまで行けるやら、心もとない限りです。
 最も興味深く拝見したのは、「引用」についての一連の論です。この本の版元の本多寿さんの詩集における引用を巡っての論争があったようです。私は原本を見ていないので感想の述べようもないので、その件はおいておきますが、考えさせられる記述がありました。

 「一篇の詩に他者の詩や文章を引用することは、他者からの言葉を借りるということではなく、他者が言葉を産み出した精神のありかと対峙することだ。他者の言葉に耳を澄まし、それらを反復し続け、せめぎあう精神行為に拮抗するものだろう。(『「引用」感謝論』部分)」

 さらに哲学者ブーバーの言葉として、「引用」とは「精神から吹きよせてくるそよぎ」であると論じています。これは私に感銘を与えました。自分の詩に他者の作品を引用することはあまりありませんが、散文ではよくあります。このHPの文章はまさに最たるもので、引用がなければ成り立たないHPです。ここで私が注意しているのは、原文をできるだけ忠実に再現することです。縦書きを横書きにしてしまうのは機械の制約上しょうがありませんが、それ以外は行数、字数の並びに到るまで忠実にあろうとしています。それは、原文が私に与えてくれた恩恵に対する最低限の感謝だと思っているからです。
 それと同じことを鈴木さんが指摘していて、うれしくなりました。その上に「他者が言葉を産み出した精神のありかと対峙すること」との教示は、考えさせられました。果して自分にそこまで深く作品と向き合っているかと反省させられた次第です。正直なところ、表面的な好き嫌いで他人様の作品に感想を書いているなと思います。これを機に、いただいた本に対してもう少し「他者が言葉を産み出した精神のありかと対峙」していきたいと思います。


個人詩誌COAL SACK33号
coal sack 33
1999.4.15 千葉県柏市
コールサック社・鈴木比佐雄氏発行 500円

 石の家/尾崎幹夫

父にあいにでかける
山の石の家には
おどるものがいる

にくのそげた脚だ
くろずんだ舌だ
しわよった臍だ

老いたものたちはおどりながら寄ってくる
おれだ
とうさんだ

父はわずかにのこっていた髪の毛が
生き死にのけじめを縫うように
ぼくにまといつく
父の陰嚢は
うれしいのだ
父の盆の窪は
うれしいのだ
ぼくがおぼえていることが

どうだおれは
まだくさっとらん

ぼくは泣いている
泣きながら
すきだよ すきだよといっている

 男にとって父親の存在というものは面倒なもので、距離をとりたいけど、その距離のとり方が難しいと思っています。着かず離れずをいつも念頭においていますが、なかなか難しい。私の場合は長男であるにもかかわらず、独立して生活していますから余計そう思うのかもしれません。ですから、この作品の「すきだよ すきだよといっている」というフレーズは理解できますが、まだ自分の言葉としては発せません。
 ひとつには「石の家」とは何かという解釈によって、父親との距離のとり方が違ってくると思います。コンクリートの家と解せば、老人ホームのような所を想像します。そうすると父親は生きていることになります。墓石と解釈すれば死んでいることになります。そのどちらなのか、私の読解力では区別できませんでした。あるいはどちらでもよく、あるいは両方なのかもしれません。
 いずれにしろ「どうだおれは/まだくさっとらん」という言葉が私に衝撃を与えました。そして自分の(生きている)父親に思いを馳せ、彼が死んだあとを想像させたのです。そして次に続く自分の身にも思いが到りました。久しぶりに父親について考えさせられた作品でした。


個人詩誌COAL SACK34号
coal sack 34
1999.8.15 千葉県柏市
コールサック社・鈴木比佐雄氏発行 500円

 身体/尾内達也

身体なんかもって
生まれて来るんじゃなかった
俺は声になりたい
祭りの終わった海岸に寄せる
最初の波の音になりたい
新緑の森を抜けて行く
葉のざわめきになりたい
俺は社会の要らない声だから
どんな言葉も届かない

身体なんかもって
生まれて来るんじゃなかった
俺は視線になりたい
海上に銀色の円弧を描く
イルカの喜びの視線になりたい
サバンナの風の血を浴びる
チータの純粋な視線になりたい
俺は飢えない視線だから
どんな政治学もすり抜ける

身体を蛇のように抜け出して
市場の先を覗いてみたい

そのとき 俺は詩 詩人ではない

 身体はいらない、声や視線になりたいとう発想に驚かされました。そして終連の詩そのものになりたいという願いに、作者の詩に対する強い思いを感じました。その通りでしょうね。必要とされるのは詩であって、詩人ではないのかもしれません。
 しかし、これはある意味では危険な思想かもしれません。肉体を不要とし、その思想のみを重要視することは、生体への冒涜とも取られかねないと思います。作者の意図はそこにはないでしょうが、表面を追うだけではそうなってしまいます。でも、人間不在が本当は良いことなのかもしれません。人間中心の世界観が現在の地球を壊している元凶とも思います。化学工学の一端を生業としている私にとっては辛いことではありますが…。


個人詩誌COAL SACK36号
coal sack 36
2000.4.25 千葉県柏市
コールサック社・鈴木比佐雄氏発行 500円

 昨年、このHPを開設するにあたって私が心がけたことは、詩誌の主宰者の作品にはなるべく触れず、同人(『COAL SACK』の場合は寄稿者)の作品を紹介するというものでした。それは、主宰者は紹介されたり批評される場面が多く、私が追従しても意味が少ないこと、同人の作品について感想を述べた方が健全な主宰者なら喜ぶはず、という私の勝手な思い込みによります。この原則は1年を過ぎた今も変わっていません。
 その意味から派生して、有名な詩人についての感想も避けてきました。しかし、中上さんの作品については禁を破ろうと思います。実は33号、34号、36号と続いて拝読してきて、毎回彼の作品について感想を述べたいという誘惑に駆られていたのです。特に36号の次の作品は、どうしても紹介したい。

 ぼくらの永遠の苦悩/中上哲夫
  −ローレンス・ファーリンゲティに

男でよかったなとつくづく思うのは
妻のブラジャーやガードルをほしているときで
これらの布切れを身につけて
胸や腰をふって
(別にふらなくてもいいけど)
町を歩くぼく自身の姿を想像すると
ぞっとするね
(見るひとはもっとぞっとするだろうね)
下着は下着
布切れにすぎない
と思うし
そこにどんな想像力をつめ込んでみても
いつもサイズからちょっぴりはみ出してしまうものなのさ
ブラジャーから肉がはみ出してしまうように。
そこがいかにも下着的で
ぼくを見つめる主婦たちの目も
きわめて下着的だ
どんなにフリルやレースをたくさんつけてみても
所詮布切れは布切れさ
下着はファシズムだ
と書いたアメリカの詩人がいたように
トランクスは有無をいわさずそのひとの思想を右と左に峻別するし
金具やゴムやジッパーは拷問具のようにぎりぎりしめつけ
圧迫するのだ
ぼくらの精神の自由を。
だからといって
下着のない暮らしはいつばらばらに崩壊してしまうかわからないし
歩くたびにぶらぶらゆれるのも困る
下着こそ人間存在の象徴だと主張するへんな名前の哲学者もいたし
(名前は忘れてしまった)
下着をつけた驢馬やロボットを見たことがないのも事実だ
そこにぼくらの永遠の苦悩もあるわけだ

 まったく、何という「苦悩」を書いているんだ、と思いますよ。確かに「下着こそ人間存在の象徴」かもしれないけど…。「トランクスは有無をいわさずそのひとの思想を右と左に峻別す/る」というのは、睾丸の位置を言ってますね。これは良く判る。
 しかし、この作品をもう少し深く考えてみると、下着に象徴される日常性の猥雑さを言っているのかなとも思います。もっと想像力を膨らますと、下着という「拷問具」に縛り付けられた人間の精神の不自由さまでも言っていると思います。中上詩のもっと深いところまでは踏み込んでいけませんが、楽しい作品の中にも示唆に富んだものを感じさせます。大好きな詩人のひとりなんです。



 
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