きょうはこんな日でした【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「ムラサメモンガラ」 |
2000.5.6(土)
夜は自治会の役員会に行ってきました。6月に行われる全市いっせいの美化作業の話が中心。今までは一自治会員として言われたことだけをやっていれば良かったけど、今年はそうはいきません。みんなに気持ち良く働いてもらうにはどうするか、会社とはちょっと違った能力が要求されそうです。それもまあ、大事な経験だと思うようにしています。地に足をつけて文学をする、なんて言ったらちょっと格好良過ぎるけど、無駄にはならないだろうなと思います。そんなふうにでも思わなければやってられませんからね(^^;;
○詩誌『木偶』41号 |
2000.1.20 東京都小金井市 木偶の会・増田幸太郎氏発行 300円 |
『夢の本』より/中上哲夫
月のない夜 − 。
ぼくらは丘の上の草地に腰をおろして暗い空を見上げている。
草むらでは秋の虫たちがさかんに発音器をこすって乾いた空気
を攪乱している。鼓膜が麻酔しそうだ。だれかが大声で虫たちの
名前をつぎつぎに告げていく。鈴虫、松虫、邯鄲、轡虫、鉦叩き、
青松虫、馬追い虫、閻魔蟋蟀、綴り刺せ蟋蟀……。
丘の上にいるのはぼくらだけで、数えてみると八つの顔が空中
にぼんやり並んでいる。死んだはずの父母や弟、さらに祖父母ま
でいて、家族全員そろうなんてずいぶんひさしぶりだなあと思っ
ていると、流れ星が光の尾をひいて闇のなかをしきりに落下する。
そのたびに、「願いごとをし! 願いごとをし!」という声がす
ぐ近くでする。
なつかしい感じを受けました。丘の上で虫の音を聞いて、流れ星を眺めて。もちろん夢の中という設定になっていますが、現実にそういう体験を私たちもしているわけで、それが作品との距離を縮めているんだと思います。なにより「願いごとをし! 願いごとをし!」という表現に胸打たれます。「し!」という動詞に存在感があって、現場にいるような錯覚を受けてしまいました。おそらく母親が「願いごとをし!」と言っているのでしょう。自分が願うのではなく子の幸福を願って、子にさせるという母親の愛情をも感じてしまいました。
一見、なんでもない情景描写ですが、夢の中という設定でずいぶんと柔らかい雰囲気が出ていると思います。そして昔は全員揃っていた家族が、欠けていくという現実まで見せて、感銘を与えるのだと思いました。
○詩誌『木偶』42号 |
2000.4.30 東京都小金井市 木偶の会・増田幸太郎氏発行 300円 |
雁風呂/仁科
理
冬近い北国のその村は
入り日の淡さにつつまれ
蜃気楼のようにはかなかったが
季節外れの旅にはふさわしかった
一夜をとった海辺の宿は
夜っぴいて海鳴りがとどいていた
目覚めては夕餉に聞いた
雁風呂の話を思い出していた
海をわたる長旅の翼を休めるために
口に銜えた小枝を浜につくと落とすという
落とした小枝を浜から拾って帰って行くという
候鳥のならわしが息づくこの村は
春には残された小枝で風呂を沸かすだろうが
海鳴りは候鳥の声になり夜が更ける
雁風呂については意外に作品が多く、しかもかなり情緒的です。この作品はその情緒を排していて、淡々としているところに惹かれました。死んだ雁が置いていった小枝を集めて、という一般的な説明がないのが成功していると思います。それに「候鳥」には驚かされました。実は意味が判らなかったのです。渡り鳥だろうと勝手に読んでいたのですが、辞書で調べると一定の季節だけに現われる鳥は候鳥(こうちょう)と呼ぶのが正しい、とありました。そこの区別がきちんとなされているから、この作品が変に情緒的にならなかったのかなとも思います。勉強させられました。
○文芸誌『CATALYSE』2号 |
2000.5.1 大阪市北区 松尾一廣氏発行 400円 |
このHPにもリンクしている、まつおかずひろさんの「アヴァンセ」のメンバーが中心になって発行しているようです。HPもいいけど、やはり紙の本にはそれなりの魅力がありますね。
脱皮/永井ますみ
背に廻された手の温かさを感じられなくなっている
肥厚していく皮膚の下には新しい皮膚
もう潮時だと囁くものがあって
いやいやをしながらしがみついているあなたのからだ
からだへのしゅうちゃくはみにくい
からだへのしゅうちゃくはかならずおわりがくる
新しい皮膚へ着替えることは
新しい人に生まれ変わること
あなたは居ないかもしれない
いやいやをするたびに ひふとひふにすきまがあいて
どうしてもおしだされてしまう わたくしのからだ
そのようにしてわたくしはちがう世へ
すべり出てしまったのでした
残されたカサカサの皮膚は日毎に縮みながら
骨董屋の澱んだ空気の中の
でっぷりと太ってしまった貴方の身体を
私は毎日眺めているのです
連詩の中で、まつおさんの作品に連なった作品だそうですが、それを外して考えても一篇の作品として成り立っていますね。この皮膚感覚というのは、私も最近感じているのです。永井さんと私は同年代ですから、肉体的な変化も同じようにおとずれてくるのかなと思います。「背に廻された手の温かさを感じられなくなっている」というのは実感ですね。
ここでは別に性欲について書かれているわけではありませんが、性欲が無くなってきている私としては、実はうれしいのです。妄想が多い方でしたのでそれにずいぶん悩まされました。それが無くなってホッとしているところです。そこに費やされていた時間を取り戻した!という気分ですね。ちょっと負け惜しみの気もありますが(^^;;
皮膚がどんどん変わって行くというのは、ある意味では怖ろしいことかもしれません。最終連は女性の目から見た男ですが、同じ思いで私も自分の身体を見ていることに気づかされます。肉体が変わって、自分の文学がどう変わって行くのか、そんな興味もありますけどね。
○季刊文芸誌『らぴす』11号 |
2000.4.30 岡山県岡山市 アルル書店刊 700円 |
津田幸雄さんという方が「時代劇映画大好き(5)『切腹』」というエッセイを書いています。1962年封切の『切腹』という映画に関連してのエッセイです。武家社会の矛盾を述べたあとに次のように締め括っています。
「上辺を繕うだけ、飾るだけのために個としての人間性は犠牲にさせられる。何も封建時代の武士社会だけではないだろう。今、回りをみても、掃いて捨てるほどそんな事例を見聞きする。かつての時代はそのおかげで殿様たちは安穏としていられた。現代も、根本は
<金> と <権力欲>
にその原因は変わったとしても、根本要因はけして変わらない。上辺を繕い飾り、そこに属する個人としての人間は常に犠牲を強いられている。中間管理職の悲哀、赤ちょうちんの下でのグチ等。いや、既に若者達はそれにソッポを向いて、個として生きはじめていると感じられるのはせめての救いと私は思いたい。」
確かに若者は変わってきているのかもしれませんね。職業の選択でも、かつては大会社志向でしたが、最近は飲食業などの、いわゆる手に職をつける若者も増えているように思います。特に製造業がこの50年でやってきたことが責められている時代ですから、そこに若者が魅力を感じなくなっているのかもしれません。私自身が化学工場の技術屋としての30年を振り返ってみても、誉められることばかりではないなと思います。
会社組織はサムライの組織、特に製造業は上下の関係がはっきりしていて、そう思います。しかし製造業が無くなることはありませんから、身を置く者としては、組織と個の両立を考えなければならない時期に来ているのかなと反省させられました。
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