きょうはこんな日でした【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「ムラサメモンガラ」 |
2000.5.13(土)
今日は朝10時から日本詩人クラブの『日本の詩100年』の編集会議がありました。詩人クラブの創立50周年を記念した出版で、600頁を越えようという大冊です。値段も8000円(会員割引6000円)と高めですが、資料としては一級品になります。6月下旬には発売される予定です。6月10日の詩人クラブ関西大会で予約を受け付けると思いますので、よろしくお願いいたします。
朝10時からでしたから、昨夜はペンクラブの電メ研のあとは赤坂のホテルに泊まりました。なんと18時にはホテルに入って、しかも予定なし! 近くの酒屋で「久保田」を安く売っていましたので、さっそく4合瓶を買って持ち込みましたよ。食事に出る気もしなかったので弁当も買ってきて、朝までホテルから一歩も出ずにチビリチビリ。久しぶりに長い夜を楽しみました。
午後は日本詩人クラブの第51回総会がありました。今回は司会を担当しました。以前、議長をやったことがありますけど、それに比べると楽ですね。淡々とこなすだけですから。評論、訳詩部門を顕彰する「詩界賞」の新設や、広報「詩界」の他に雑誌形式の本を出すことなどが決まりました。会員、会友の方は詳しくは後日の広報をご覧ください。
懇親会風景 |
総会のあとは例によって懇親会です。あまり写真を撮れなかったので、これは詩人クラブのHPに載せたものと同じものです。これは呑み会の始まる前です。始まったら、写真を撮るより呑む方に忙しかった(^^;;
○詩誌『沈黙』18号 |
1999.6.10 東京都国立市 井本木綿子氏発行 700円 |
もなか
最中/村田辰夫
黒みがかった泥色の ときには紫がかった餡を
真ん中にいれた最中
その本質は甘さ
餡を直接手指で掴んで口にするわけにはいかないので
米粉で出来た二枚の薄皮の間に挟む
だから外見は狐色の焼き皮や
その上に適当につけられた凹凸の模様が見える
それは意味の本体を包む言葉のようだ
ものごとの核心を直に触ろうとすると
手で汚れ 口にもしにくい
そんなとき人は舌ざわりのよい言葉の外皮を被せ
見た目を装う
またしてもきゃつ等が
本質を隠蔽して言葉の薄皮を被せる
「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」
英語の呼び名は ウォー・マニュアル
つまりは「戦争必携」「戦いの手引き」
中身は「後方支援」という名の戦争の仕方
戦争を手先で操作している
要するに「戦争」
最中の餡に直接手を触れると
手が汚れ 粘つく
人はそれを恐れて薄皮をつけた
人の心の奥底には常に恐怖心がある
死や危害にたいしては特に強い
戦争でやられたらどうする
再び焦土と化したらどうする
かつて国を焦土と化さしめたあの火炎を噴く怪物飼育者とその仲間たちが
あどけない人の弱みにつけこんで
恐喝まがいの口実を労する
中身の餡は血の色
実際食べたら唐辛子味いっぱいの最中
店頭見本だけならよいが
きっと試食してみたくなる奴が出てきて
大売出しの旗を振る
皆さん 最中には注意しましょう
なるほど、最中ですね。こんなふうに最中を考えことはありませんでした。もともと甘いものは好きではないので、最中なんかについて考えもしませんでしたけどね。「その本質は甘さ」、「そんなとき人は舌ざわりのよい言葉の外皮を被せ」という指摘は重要だと思います。
ガイドライン、盗聴法と重要な法案がすんなりと通ってしまう事態になりました。それらを理論で書く方法も当然重要ですが、詩人はやはり詩作品として残さなければならないのかもしれません。私にはその力がないので諦めていますが、こういう作品に出会うと勇気づけられますね。見習いたいと思っています。
○詩誌『沈黙』19号 |
1999.12.10 東京都国立市 井本木綿子氏発行 700円 |
鋏/鈴木理子
父の趣味は文房具
大学ノート クリップ 鉛筆 雲形定規
若くして亡くなった兄の土産だったのだろう
七十年も昔のドイツ製の色鉛筆を
九十歳の日も大切にしている
抽斗には万年筆がいくつも眠っている
父の日
銀座でもとめたゾリンゲンの紙切り鋏
原稿用紙をひろげていた父は
その金色の鋏をしばらく手にしてから
原稿用紙を折って
波形の細い紙のリボンを幾本も切り抜く
次に花びらを重ねた丸い菊の花を刻む
「よく切れる?」
「ああ いい鋏だ ありがとう」
私も別の小さい鋏で原稿用紙を細く切り
メビウスの帯をつくる
一回ひねる そして輪を切りひらくと
大きなひとつの輪になる
二回ひねる 絡み合った二つの輪が生まれる
表裏の違いのわかる紙のほうが
メビウスの帯の仕組みがわかりやすいという
「メビウスの帯って不思議だと思う」
父は左利きの私の指先を見つめながら
「幸せか?」
金色の鋏で心を切りひらかれて
唐突にトマトを胸にぶつけられた
少女のように一瞬たじろぐ
「うん まあ……」
父に背いた遠い日のことが甦る
それは「父を頼む」という二十年も前の
母の最期のことばに重なる
自分の鋏で切り刻んでしまった安らぎを
更に細かく幾度もひねり絡ませ
その残骸をからだに巻きつけてきた
幸せを問われたことも
自分に問うたこともないが
一枚の紙の表でもあり 時には
裏でもある幸せと不安
いつも背を向け合い支え合っている
切り絵遊びで散らばった紙の破片が
六月の湿った風に揺れている書斎で
珈琲を飲む
これが多分最後の
父の日になるだろう
何でもない情景ですが、心に沁みる作品ですね。九十になる父とその娘の長い人生を、一瞬の情景で表現してしまう作者に敬服します。ゾリンゲンの鋏、メビウスの帯と小道具の出し方も無理がなく、しっかりと捉えられていて、詩としても一枚の絵としても光るものがあります。こういう作品に出会うと、自分の過去にあった恥ずべきことも、いずれ洗われるのではないかと思ってしまいます。
詩の持っている本来の力をこの作品に見た思いです。映画の一シーンにでも使いたいような作品ですね。久しぶりに幸せな気分になり、そしてちょっと泣かされました。
○個人詩誌『ひとり言だもんね』9号 |
2000.5.12 東京都国立市 小野耕一郎氏発行 350円 |
供養
命日さえ忘れてしまった
親父の夢をみた
とにかく酒ばかり呷っていた
きまずい記憶しかない
酔いつぶれてはお袋に乱暴し
隣近所の悪口を
言い放って
醜態を晒し続けた思い出しかない
なぜああだったのか
子供の私に解るはずがない
とても嫌だった
その親父と同じ年頃を迎え
少しばかり
その気持ちも解るような
昨今であるが
暴力だけはいけないと言い聞かせている
辛かっただろうなあ
生きてもらちがあかない日々が
いま思うと家は貧しかったし
仕事も野良仕事あり
出稼ぎありで休む暇がなかったのかもしれない
そう思うと
葬式にも行かなかった
親不孝を許してもらいたい
だから
いま少しばかりの供養と思い
手を合わせてお祈りする
たぶん小野さんは私と同じ年頃だと思います。この年代には古い価値観に抵抗した時期があって、ああ同じようなことをやってきたんだな、という思いを強くしています。私も実家と10年間音信を断った時期がありました。幸い祖父の死をきっかけに仲たがいは収まりましたが、それが無かったら今だに絶交状態だったでしょうね。
そういう意味では年をとるということは嫌なことばかりでなく「その親父と同じ年頃を迎え/少しばかり/その気持ちも解るような/昨今であるが」と小野さんも書いているように、見えるべきものが見えてくるのかもしれません。かえって小野さんや私のように親を捨てた経験のある者は、親のありがたみを骨身に沁みて感じるのかな、とも思っています。私も久しぶりに親のことを考えさせられました。
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