ょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画「ムラサメモンガラ」




2000.5.19(金)

 「きょうはこんな日でした」というタイトルですが、この一月ほどは一周間遅れから10日遅れというのが実情でした。きょうは珍しく当日に書いています、野球をみながら…。で、横浜−阪神戦。TV放映が始まったとたんに0:4。おいおい、ホントかよ! 1回表だぞ。野村投手、タノンマッセ!
 でもまあ、終わってみれば10:5の圧勝。よかった、よかった。やっと勝てた。これで安心して本が読めるというものです(^^;;


紫野京子氏評論集『夢の周辺』
yume no syuhen
2000.3.30 神戸市須磨区 月草舎刊 2100円

 詩集評、絵画評、宗教評と多岐に渡る評論集で、その幅の広さに圧倒されました。詩集は何冊か拝見していますが、評論集は今回が初めてで、詩作品の背景にあるものがある程度理解できたつもりです。
 紹介したいものは山ほどあるのですが、ここでは「存在の証しへ」と題した田中清光論の中の、次の一節を紹介します。田中清光の『詩集 東京大空襲』への評の一節です。
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 噛みしめて生きることをしないこの国の伝統のなかでは、殺戮する事も殺戮されることもわが事になりえない。特に現代の怖さは、返り血を浴びることなく殺戮がなされることであり、それが個々の問題として捉えられないことにある。 しかも情報は瞬時にして大多数にもたらされる。 しかし、それは果たして個々のレベルに至ったとき、真実の情報になりえようか。あの大地震のさなか、その中にいた個々にはまったく情報はもたらされなかった。その事実を体験しなかったものだけが、映像によって具に見ることができた。しかし巨大なビルディングや高速道路が崩壊する映像よりも、カメラが捉えることのない、肉眼で見た陋屋の崩れ果てた姿の方が、より無残なのである。ここにこそ、どんなにマスメディアが発達しようとも、「書く」ことの意義が残されている。「書く」という行為は、ひとがカメラの眼そのものになることではない。目で見た事実を、体験としてこの生身で味わったのち、思想や精神、さらには心や魂、すなわち <眼に見えぬ世界> の表現として、再び <眼に見える世界> にもたらすことである。それこそがひととしての真実なのである。そのどちらの営為を欠いても表現というものは真実にはなりえない。
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 情報のあり方、「書く」という行為の意義を考える点で重要な指摘だと思います。ともすれば、個人的な「書く」という作業の意義を忘れ勝ちになるだけに、「その事実を体験しなかったものだけが、映像によって具に見ることができた。」という指摘は貴重で、マスメディアの限界を示しており、個人の書くことの意義を再認識させてくれました。勇気を与えられた思いです。
 さらに「 <眼に見えぬ世界> の表現として、再び <眼に見える世界> にもたらすことである」という指摘は、この集の最後に出てくる空海の思想ともあいまっているように思います。空海の思想について述べると長くなりますので止めますが、紫野さんの思想の根幹を成すもののように思われ、興味深く感じました。この集では、そういう意味で紫野さんの思想の一貫性も知ることができます。
 260頁に及ぶ大冊で読み終わるのに3日もかかってしまい、正直なところちょっと疲れました。しかし心地良い疲れです。それは紫野さんの思想が一貫していて、破綻がないからだと思います。自分の頭の中が知的に浄化されていくような感じでした。


詩誌『燦α』3号
san alpha 3.JPG
2000.6.16 埼玉県大宮市
二瓶徹氏発行 非売品

 四月の雨と五月の風/野原ゆき

四月の雨は春の長雨
森に降り注ぎ
木の芽に目覚めを告げている

やわらかな生まれたての緑は
季節ごとの美しい命を
やさしく語り
信じる意味を謳う

言の葉は
五月の風に乗り飛んでいく

輝きながら

 日本の四季の中で一番よい季節をうたった作品ですが、第三連が見事だと思います。「言の葉」というフレーズが二連の「生まれたての緑」を受けて、素直に私の胸に入ってきました。「五月の風に乗り」という展開のし方もうまいと思いますね。小品ながらきれいにまとまっていて、作者の力量が判ったつもりです。



 
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