ょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画「ムラサメモンガラ」




2000.5.29(月)

 中学校PTAの役員会がありました。今年度第2回目で、司会は今回も私。第1回目は従来2時間かかっていた会議を40分で終わらせたので、今回もと思いましたがそうはいきませんでした。1時間かかってしまいました。別に早く終わることを目的にしているわけでありませんが、決めるべきものはさっさと決めれば、結果として早く終わるはず、という認識です。
 会議のやり方もちょっと工夫してみました。委員会報告と委員会行事予定を別々にやっていたものを、一緒に報告してもらうようにしたのです。今までは全委員会が報告をやって、その後でまた全委員会が予定を発表するという具合だったようです。それを委員会毎に報告と予定を一緒に話してもらうようにしました。これが大幅な時間短縮になったようです。


中村不二夫氏評論集          
『現代詩展望U−世界詩の創造と条件−
gendaishi tenbo 2
2000.5.15 大阪府能勢郡能勢町 詩画工房刊 2500円

 大阪の月刊詩誌『柵』に1998年5月から2000年1月まで連載していた「現代詩時評」と、各誌に発表していた詩人論、詩集論をまとめたものです。私が昨年出した第五詩集についても二ヶ所で触れてもらっています。この場を使って改めてお礼申し上げます。
 400頁に及ぶ大冊を簡単には紹介できませんが、なんと言っても副題にある「世界詩の創造と条件」がこの本の中心だろうと思います。その観点からすべての詩人論、詩集論が成されていると言っても過言ではないでしょう。非常にスケールの大きな評論集です。同世代の詩人に、これだけの評論ができる者がいるということは頼もしい限りです。中村不二夫さんに匹敵するような仕事を自分もやらなければならないな、という刺激も受けます。このHPを始めたことも、考えてみればそれに近い意識があったのかもしれません。中村さんのような立派な評論はできないけど、インターネット上で詩集・詩誌を紹介するぐらいなら俺にもできる、という意識ですね。
 詩集論として採り上げられているのは全部で32冊、詩集論として独立してはいないものを合わせると100冊近くになるのではないかと思います。それらの詳細な論考を拝見すると、このHPを運営する上でも参考になります。特にクリスチャン詩人の詩集については、私のまったく及ばないところですので、中村さんの論に助けられました。ある程度背景が判らないと理解できない詩集があるのは事実で、この本を参考にしてもう一度読み返さないといけないな、と思った詩集も出てきました。1994年から1997年までのものを集めた前回の『現代詩展望』とともに、貴重な一冊です。


月刊詩誌『柵』162号
saku 162
2000.5.20 大阪府能勢郡能勢町
詩画工房・志賀英夫氏発行 600円

 お世辞抜きに、今号はいい作品が揃っていると思いました。若狭雅裕氏「花咲く林檎園で」、大貫裕司氏「早春の古道」、中原道夫氏「二日酔い」、肌勢とみ子氏「奇術師(マジック)」、織田美沙子氏「桜いろの姑」、今泉協子氏「集落」、小城江壮智氏「水銀電池」、檜山三郎氏「「第2孤塁庵」設営完了」、佐々木誠氏「ハーバーさん」、沢山咲恵氏「鹿のような女」、山崎森氏「迷彩色のトリアージ」などなどです。特に山崎森氏の作品には思わず◎を付けちゃいました。でも、ここで紹介するのは次の作品です。

 早春の古道/大貫裕司

箱根外輪山の
扇状地を辿る矢倉沢往還は
足柄の峠を越える古代の道

足柄山は坂田の金時
峠の別れは新羅三郎義光の笛の伝説
旅人が詠んだ万葉の地は
澄んだ風が静かだった

集落に残る関所の跡で
関守役人の老いた四代目は
道中手形や古文書を示し
旅人の往来を話して胸を張った

芭蕉の句碑を読み
風化した地蔵尊と
双体道祖神の信仰に佇ち
岐れ道の道標に
消えかかった文字の形を探る

忘れられた脇街道は
小さいバスの運行が
遠い時間を止め 清冽な流れにいる

 なぜ紹介するかと言うと、私の住んでいる地域を詠っているからなんです。まったく個人的なことで、すみません(^^;; 正確には自治会は別なんですが、学区が一緒なんで矢倉沢の人たちとは日常的なつき合いがあります。ここでも詠われているように、いい所です。万葉の昔から人が住んでいたというのがその証しだと思っています。
 矢倉沢のある南足柄市に住んで30年。私もどうやら地元の人間になったようです。なぜなら「関守役人の老いた四代目」を知らないからです。地元のことは地元の人が知らなくて、都会の人の方が良く知っている、と言いますよね? 大貫さんは厚木市にお住まいで、南足柄市から見れば大都会です。だから大貫さんの方がわが矢倉沢を良く知っていると言えるかもしれません。
 特に最終連には感激しました。まさに「忘れられた脇街道」で、定員30名程度の「小さいバスの運行」が行われている地域です。それを「遠い時間を止め 清冽な流れにいる」と表現なさっていることに、地域住民を(勝手に)代表してお礼申し上げます。良く見ていらっしゃる(^^;; 単純ですが、非常に気分良く拝見しました。


季刊詩誌『詩と創造』33号
2000.5.1 東京都東村山市
書肆青樹社・丸地守氏発行 非売品

 太鼓/泉 渓子

叩かれる身にもなってみい
思いっ切りだの
飛び上ってだの
ねじり鉢巻きで全身全霊の力なんぞと

叩かれねば音も無い
二百年の欅の根っこだって
さざ波も立てられない
こういうとき仕方がないというのだろうか
やむを得ないとはこういうことなのか

だから
そこまではゆるすとしよう
だが
叩くもんと叩かれるもんとの別れは
誰がどのように 誰が

欅は天の一点をいまも仰いでいる

 文句なしにおもしろい作品ですね。欅の気持ちになっての作品ですが、そのまま人間社会の「叩くもんと叩かれるもんとの別れ」を表現しているようで、思わず拍手喝采、というところです。ほんとうに「誰がどのように」決めているんでしょうか。「天の一点をいまも仰いで」みたくなります。
 短い作品の中にすべてを言い尽くしているようで、構成のうまさにも敬服します。第1行の「叩かれる身にもなってみい」という表現が読者を惹きつけますね。思わず「うっ、なんだこれは!?」となって、次々と文字を追ってしまいました。そして最後に、ニンマリ。詩の特性をうまく使った作品だと思いました。



 
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