きょうはこんな日でした【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「ムラサメモンガラ」 |
2000.6.2(金)
日本詩人クラブの理事会がありました。5月の総会で鈴木敏幸新会長、中村不二夫新理事長、新延拳新理事が決まりましたので、その体制下の第1回理事会ということになります。
今回の目玉は、「日本の詩100年」のパンフレットが出来たということですね。日本詩人クラブの創立50周年記念事業の一環です。戦後詩のみか、その前の50年も含めて、まさに日本の詩の歴史100年を網羅した、文学史上の重要な書物になります。私も実行委員のひとりとして微力を提供させてもらいましたが、まあ、大変な仕事でした。正直なところ、編集作業が終わってホッとしているところです。
7月27日より土曜美術社出版販売より刊行、656頁に及ぶ大冊です。定価8000円と、ちょっと高いのですが詩人クラブ会員割引で6000円になります。お近くに会員のいらっしゃる方は、会員に頼んで買ってもらうといいでするね。是非お求めください。
○個人誌『Ascendant』13号 |
2000.5.20 香川県丸亀市 堀剛氏発行 非売品 |
どこから来て、どこへ/堀
剛
わが子三歳の春
唐突にも尋ねてみた
「ママのお腹の中にいた頃を
覚えているかい」
「うん、覚えているよ」
意外な返事に
なお次を尋ねる
「そこはどんなところだったの」
「僕はお魚の恐竜だったんだ
もっと僕は遊んでいたかったけれど
ママのお腹はだんだん小さくなるんだ
ママが出ておいでと言ったんだ」
そんな答えに驚きながら
いろいろ訊いてみる
挙句の果てに
「それで、君は
ママのお腹の中に来る前はどこにいたのかなあ・・」
しばらく考えて
「うううん、分からないよ
ママはママだから
パパはパパだから
だから、僕はホリシンゴなんだよ」
分かったようで
分からないその言葉だが
僕だって何も知らないのだ
どこから来てどこへ行くのか
「どこから来て
どこへ行くのか
あなた方は知らない」
それはイエスの言葉でもあったのだが
非常に本質的な問いで、考えさせられます。先日見た映画に、火星探検で火星人が地球人の祖先だったということを発見した、なんてのがありましたが、瞬間に考えたのは、じゃあ火星人はどこから?というものでした。これは切りがないですね。
三歳のホリシンゴ君が答えた内容は、現在考えられている進化そのものですが、それを答えたということが驚きです。私も先妻の娘と現妻の娘に、同じような年齢の時に同じようなことを聞いたことがありますが、ふたりとも答えは「分からない」でした。この差はなんだろうなあ(^^;;
現役の科学の徒のひとりとしては、神に帰着する気はありません。しかし、いずれ行きつくのかな、という思いはあります。退職した先輩たち、特に工学博士号を持つような何人かの人たちは、晩年は宗教に行きついています。科学で証明できることなんて、現象の何万分の一にもなりません。科学を知れば知るほど無力さを感じるだろうなと思います。
○隔月刊誌『東国』112号 |
2000.5.10 群馬県伊勢崎市 東国の会・小山和郎氏発行 500円 |
歯をみがく人たち/大橋政人
女房の友だちの
笠村エイ子さんの家は歯医者なので
エイ子さんは歯医者をしている
長女のアキ子さんのご主人も歯医者で
妹のマユ子さんは助手
お母さんは受付をしている
朝
九時になると
スリッパ(革製)を履いて
居間と診察室の間の階段をみんな揃って昇ってくる
十二時まで
いろんな人の歯をみて
それからお昼を食べて歯をみがく
二時半になると
みんなそろって階段を昇って
四時までいろいろな歯をみる
四時におやつを食べるので
おやつぽ食べると全員で歯をみがく
五時から七時まで
また、いろいろな歯をみて
それから夕御飯になる
夕御飯はいろいろなものを食べるから
一人一人
ていねいに歯をみがいては寝室へ消える
一日中
居間と診察室の間の
エイ子さんもマユ子さんもお嫁に行かない
朝食のあとで歯をみがいているとき
なんだか
歯をみがくために
生きているように思うことがある
エイ子さんが笑いながら
女房に話しているのを聞いたことがある
おもしろうてやがて哀しき、なんですが、さすがに作り方はうまいなと思います。ボーッとしたような表現でユーモラスで、よくよく見ると「(革製)」なんてのをちゃんと入れていて、笑いを誘うようにできています。それに固有名詞があるのがいいですね。現実感があって、読者を惹き込んでいきます。「おやつぽ」という言葉はたぶん方言だと思いますが、これにも現実感があります。
しかし、よく考えてみると現状批判ではないかと思います。「なんだか/歯をみがくために/生きているように思うことがある」というところにそれを感じます。「歯をみがくため」を仕事や子育てや家の掃除なんて言葉に置きかえると、全部あてはまってしまうんです。私なんかさしずめ、酒呑むために、というところでしょうか(^^;;
それも見方によっては結構なことだとも言えます。平和だから、ですね。戦争や民族紛争の真っ只中にいる人たちには何を言っているかと叱られそうです。リストラで苦しんでいる人たちもそうでしょう。そんなことも考えさせられました。
○日本現代詩文庫第二期(19)『井上嘉明詩集』 |
2000.5.10 東京都新宿区 土曜美術社出版販売刊 1400円+税 |
吊革
人の手は
火をつくるためにあるというが
私には
吊革につかまるために
あるような気がする
吊革に ずらりと
手が並ぶと
みんな同じ猿の顔になる
訓練を受ける兵士のように
前方を直視する姿勢になるが
実のところ
何も見ていない
せいぜい
窓ガラスにうつった自分の顔を
見ているくらいのものだ
その恰好が いかにも
よく似合うようになったのは
いつの頃からなのだろう
人々は死ぬために
パリにあつまってくると
リルケはいうが
私には
人々は吊革につかまるために
地下鉄にあつまってくる
としか 思えない
1987年刊行の詩集『漏刻』に収められている作品です。発想に驚きました。「人の手は/火をつくるためにある」と私も思っていましたし、せいぜい女性を愛撫するため程度にしか考えていませんでしたから、ただ吊革に掴まるためと言われると、思わずうなってしまうのです。発想の妙と言ってもいいかもしれません。
それと同時に作者の生真面目さも感じました。たかが吊革ごときにこれだけの思い入れをすることに、それを感じます。吊革に掴まる人を「訓練を受ける兵士のように/前方を直視する姿勢になるが」というフレーズでも戦争を体験した人のある種の生真面目さを感じます。「実のところ/何も見ていない」という観察の鋭さにも勉強されられます。
逆説的には、人の手とは何だろうとも思います。「火をつくるため」とは当然、労働を意味しますが、その長い労働の果てに人類が手にしたものはいったい何だったんだろうか。火を作った瞬間から、地球の苦しみが始まったと言ってもいいのではないだろうか、とも思います。考えさせられる作品でした。
[ トップページ ] [ 6月の部屋へ戻る ]