ょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画「ムラサメモンガラ」




2000.6.7(水)

 社員研修で湯河原の厚生年金会館に行ってきました。このトシになると研修を受ける立場ではなく、講義する側なんですが、今回はそれも越えてしまって講義者を見る側になってしまいました。さすがに緊張しましたね。いわば自分の弟子たちがうまくやってくれるだろうか、とハラハラしていましたよ。
 私たちは工場の技術屋ですから、常に様々にトラブルに遭遇しています。9割以上のトラブルはその場ですぐに原因が判って解決するのですが、残りの1割が手強い。簡単には原因が判らず、製造設備が休止に追い込まれたり、最悪の場合はユーザーに迷惑をかけて会社の信用を落とすことにもなりかねません。そこでいかに早くトラブルの原因を突き止めるかというプログラムが研修として組まれています。その研修が私の仕事の一部でもあるわけなんです。
 30台の若い製造課の係長を集めて、これまた30台の若い講師陣が講義することになり、講師陣のバックアップということになった次第です。絶対間違ってはいけないところは口を出しましたが、それ以外は見ているだけです。しかし、これが結構つらい。「オレだったら違うしゃべり方をするのにな」と何度思ったことか。しかしそこで口を出すと講師陣の勉強にならないので、グッと堪えましたよ。それが私の勉強でしたね(^^;;


粟津號著『俳優(わざおぎ)がゆく』
wazaogi ga yuku
2000.4.4 東京都千代田区 旭出版企画刊 2200円


 日本詩人クラブ会員の船木倶子さんよりいただきました。著者の粟津號さんは船木さんのご亭主です。残念なことに、今年54歳でお亡くなりになっています。
 私は映画は洋画ばっかりで、テレビはニュースとプロ野球の横浜戦しか見ませんので、粟津さんのことはまったく存じ上げていなかったのですが、NHKの大河ドラマに出演するなど、いろいろとご活躍なさっていたんですね。そんなご活躍ぶりを1999年2月から今年の1月まで「秋田魁新報」に毎週お書きになっていて、そのエッセイをまとめた本です。なかなか含蓄のある言葉が出てきます。
 「自分の価値は他人との比較によって決まるものではない」、「他人と競って手にしたナンバーワンの座ではなく、自分らしく生きたオンリーワンの生涯を送って果てたい」という言葉が出てきて、並の俳優ではないと思いました。これは本の最初の方に出てくる言葉ですが、その言の通りの俳優生活が描写されています。俳優の生活というのは、脇から見ているほど浮かれたものではないと思っていましたが、まさにその通りで、存じ上げない粟津さんの等身大の生き方をみた思いです。
 市販されている本ですので、あまり詳しく書くことはできませんが一読をお薦めします。粟津さんのプロダクション、「倶子オフィス」Fax 047-381-4022 か、
村山までご一報いただければ仲介します。


詩誌『しけんきゅう』134号
(創刊50周年記念号)
shikenkyu 134.jpg
2000.6.1 高知県高松市
しけんきゅう社発行 350円

 今号は創刊50周年記念号ということで、特集テーマ作品「自画像」を組んでいます。自画像に対する各人の違いがあって、なかなかおもしろい。一般に巻頭作品や主宰者の作品は良いものが多く、それをこのHPで紹介するのは当たり前すぎておもしろくなく、避けているんですが、今回は悔しいかな、巻頭作品に惚れてしまいました。

 考えるジャガイモ/倉持三郎

暗いカゴのなかにひっくりかえされても
不平ひとつ外には聞こえてこない。
季節がくるといつのまにか、くぼんだところから紫色の芽をだす。

でも芽を出したといっては怒られる。
そのあたりには毒があるからと主婦にはよろこばれない。
深く切りとられて捨てられる。
切り口からにじみでる液が赤いことにだれも気づかない。

最近は芽生えをおくらせるためにガス室に送られる。

きみは雄弁なのだが
だれもきみの言うことに耳をかさない。
きみのなかに無限の思想があることに気がつかない。
でこぼこしているのは思想があふれているせいであるのに。
だれもきみは食べられるためにだけ存在していると思っている。

ときおり海のかなたの
故郷を考える。空気のうすい高地と乾いた石混じりの地面を。
寒さにたえ厚さにたえる長い旅路を。

幸いにも何人かは
土のなかに埋められて
春の日の光りに照らされて
赤子の手のひらのような若葉をだす。
うす紫色の花をつける、
だれにも気がつかれないで。

 これが「自画像」という作者の感覚に脱帽します。しかも「考えるジャガイモ」です。「きみのなかに無限の思想があることに気がつかない。/でこぼこしているのは思想があふれているせいであるのに。」と表現する作者の自負と、ある種の気後れのようなものを感じます。非常にナイーブな方なのではないかと想像しています。
 「うす紫色の花をつける、/だれにも気がつかれないで。」と述べる作者の、詩を書かなければならない必然を全体に感じました。それが「自画像」だととらえるしたたかさにも敬服しました。読んでいて気持ちがスッキリするような作品でした。


詩誌『岩礁』103号
gansyo 103
2000.6.1 静岡県三島市
大井康暢氏発行 700円

 春の夕ぐれ/高石 貴

椅子がふたつ並んでいる
風の音がさびしいバスストップ
カーブになっている
見はらしのいい
春の夕ぐれである
(ランチとコーヒーの店)から
女主人が出てきて
青いポリ容器に
灰皿の吸殻を捨てる
それから
まぶしそうに目を細くして
こちらを見る
(女主人という題名のミステリー)
そんなことを漠然と考える
バスの屋根が
うしろから少しずつ
大きくなってくる

 なんとものどかな雰囲気を味あわせてくれます。しかし私はそれ以上に臨場感を楽しみました。「見はらしのいい/春の夕ぐれ」、「(ランチとコーヒーの店)」、「まぶしそうに目を細くして」、「バスの屋根が/うしろから少しずつ/大きくなってくる」などというフレーズにそれを感じます。映画の一シーンを見ているような…。
 改めて、一行一行にスキがないなと思います。たとえば、普段は使うことが嫌われている「それから」や「そんなことを漠然と考える」を取ってみると、全体がブチ壊しになってしまいます。こういう作品というのは緊張感がある割には読者にそれを強いることがなく、なかなか書けないものだと思います。読み終わって、得をした気になりました。



 
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