ょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画「ムラサメモンガラ」




2000.6.10(土)

 日本詩人クラブ関西大会に行ってきました。関西大会は隔年で行われており、私の楽しみにしている行事のひとつです。一年おきに関西の詩人たちに会えるのは、なんともうれしいことなんです。大会の講演の様子や交歓風景は、日本詩人クラブのHPに載せておきましたので、そちらをご覧になってください。ここではもっぱら私的な報告を(^^;;

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永井ますみ氏 堀 剛氏 水野ひかる氏
 
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堀 剛氏  水野ひかる氏  村山精二

 永井ますみさんとは、もう20年来のおつき合い。堀さんは今年になってHPのリンクでおつき合いを始めたばかり。水野さんとは昨年の丸亀大会以来ですね。新旧の友人たちと会えるのが何よりの楽しみなんです。堀さんは残念ながらお仕事が入っていて、二次会には出席できませんでしたけど、今回の関西大会でお会いしたいおひとりだったので、まずは念願かなってうれしい、というところですね。通常、オンラインで交流のある人と実際に会うことをオフライン・ミーティングと言いますが、今回はまさにオフミになりました。いつもメールのやり取りをやっていますから、お会いしてもすぐに話を始められるというのが、通常の社会生活とは違うところです。
 で、一番端の私は髭を伸ばしています。ちょうど一ヶ月を過ぎたところです。どうです、サマになってますか? 評判が悪いんですよ(^^;; 自分でもそう思います。20年前にも伸ばしたんですが、その時はまっ黒で良かったんですが、今はこれですもんね。まあ、寄る年波にはナントカ、ですね。伸ばした理由? 特にありません。夏はだいたい坊主にしていましたが、それも飽きたんで髭でも伸ばすか、という単純なものです。


加瀬昭氏詩集『森の饗宴』
第5次ネプチューンシリーズgY
mori no kyoen
2000.5.20 横浜市南区 横浜詩人会刊 1200円

 冬芽の合唱

森では 夜が静かにしのびよると
時に 賑やかな合唱が起きる
樹が新しい季節に備えて
凝縮している
枝々には包皮のなかで
待つものがある

月が映えて
樹に語りはじめる
樹の冬芽は
光を放ち
さらに 明滅を繰り返している

冬芽の光の呼吸が
森のなかで
明滅で 誘われるように
森のなかの生き物たちは
深夜の宴にたむろしている
  
*
ある翁が森のなかで
夜を過ごしたとき
鬼すらも
宴に 加わって
時を忘れて
夜が白むまで
狂いの輪のなかで 過ごしていた

ふと 夢のなかで
森の饗宴に遭遇する
森に住む生き物たちが
火を囲んで 車座になる
歌い 踊り
注がれるものを 飲むと
心が高揚して
夜を徹して 踊り狂う

樹の冬の芽が
新しい季節へ
たくさんの情念を秘め
やがて 花開くとき
それを眺めるものが
もの狂いを伝播する
その季節への予感がする

 
* 宇治拾遺物語「鬼に瘤取らるる事」

 タイトルポエムの「森の饗宴」という作品は別にありますが、ここでも「森の饗宴」という言葉が出てきます。私はこの作品の「森の饗宴」の方がこの詩集の性格を表しているのではないかと思います。では、この詩集の性格とは何かと言うと、簡単にはのべられないのですが、「もの狂いを伝播する/その季節への予感がする」というフレーズではないかと思っています。
 鬼も出て、「森に住む生き物たち」が集まる「森の饗宴」。それは「もの狂い」の宴です。「樹の冬の芽」はそれを見ていて、「新しい季節へ/たくさんの情念を秘め/やがて 花開くとき」を待っています。しかしそれは、「もの狂いを伝播する」宴なのです。
 作者の、ある意味では醒めた視線を感じています。おそらく作者はその視線を示すことを、この詩集でやろうとしたのではないでしょうか。大人の鋭い感性を感じました。


詩誌『人間』134号
ningen 134
2000.6.1 奈良県奈良市
鬼仙洞盧山・中村光行氏発行 1500円

 ペンを置いて/倉田 茂

ペンを置いてふと思う
何と多くの手紙を書いてきたことか
人を励まそうとする手紙 頼ろうとする手紙
傷つけたかもしれない手紙

優に大河小説の量に達したであろう
情熱と焦燥の過半が手紙だった
悔いているのではない いつも大切な人たちがいた
断念することができなかっただけだ

若い日 『チボー家の人々』を読んで
作家の精神とは断念する精神であると知った
物語はこうして残る 孤高の生命は消えても
このフランス語の大河は滔々と流れつづける

手紙を書いて 暮れゆく人生の一日
私に残せるものは手紙だけだろうか それでもいい
自分の生涯を語ることになる文章であれば
ローマの貴紳小プリニウスの『書簡集』のように

 「優に大河小説の量に達したであろう」とは、大変な量の手紙をお書きになったのだなと思います。「私に残せるものは手紙だけだろうか それでもいい」というフレーズには作者の覚悟があり、納得させられます。反語として「作家の精神とは断念する精神であると知った」というフレーズがありますが、それは反語ではなく、乗り越えるものと言ってもいいのかもしれません。
 私もほとんど毎日のように手紙を書いていますが、いただいた本へのお礼ですからたいした文章にはなっていません。しかしそれでも毎日、文を書くという訓練にはなるようです。とても「ローマの貴紳小プリニウスの『書簡集』のように」とはいきませんが…。


鬼の会会報『鬼』337号
oni 337
2000.6.1 奈良県奈良市
鬼仙洞盧山・中村光行氏発行 非売品

 「鬼のしきたり」という連続エッセイがおもしろいのですが、今回は変なことに気づきました。すべて180字でピタリと収められているのです! 一字下げがありますから実際は179字ですが、11編のエッセイがすべて180字。その前の号はどうだったんだろうと思って調べてみると、11編すべて180字。「鬼のしきたり」が乗っている手持ちで、最も古いものは14号前になりますが、これもまったく同様でした。1字の違いもなく続いているんですね。今まで気づかなかったのは迂闊でしたが、やろうとしてもできることではありません。

 日本酒の日
 ご存じか、十月一日は日本酒の日である。その理由は、こうなるのだ。ムカシ、酒の壷を表現するのは酉の文字だった。この文字はトリと読むが、十二支では十番目になっている。十月は新穀が稔る月で、酒づくりが一斉にはじまる時季だ。つまり十月一日は、酒造元旦ということになるわけ。だいたい十月は冷や酒でも燗酒でも旨くて、日本酒の飲み頃になり、料理屋も居酒屋も千客万来である。

 今号で紹介するのは、この「日本酒の日」ですが、どうです、1字の狂いもなく収まっているでしょう。すべてがこの調子です。驚きました。
 それはそれとして「日本酒の日」。なるほど、そういう謂れがあったのですね。まあ、私は毎日が「日本酒の日」ですけど(^^;; これから10月1日には、日本酒に敬意を払って、絶対日本酒だけを呑むようにします。



 
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