ょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画「ムラサメモンガラ」




2000.6.13(火)

 銀座の「すどう美術館」に行ってきました。日本詩人クラブ、「螻の会」でご一緒している原田道子さんより「第2回 詩と書のはぁもにぃ展」のオープニングパーティーをやるから写真を撮れ、という指示だったんです。実は原田さんから Nikon F70 というカメラの名機を半年ほど前から預かっている身でして、今後も使わせてもらおうという下心があってノコノコ出かけて行きました(^^;;
 行って感激しましたね。そんな俗な下心なんてフッ飛んでしまいましたよ。
 「すどう美術館」では、原田さんの詩作品を稲田翠香さんという女流の書家が書にしたためるという試みでした。原田さんの最新詩集『カイロスの風』というクソ難解な(^^;; 作品を自由奔放な書で表現するというもので、これも良かった。原田詩を書にするなら、これしか無いなと納得させられましたが、朗読が最高でした。
 朗読は「くるまいすかたりべ」という紹介のあった福角幸子さんという方がやりました。身体障害を持っている方です。言語障害もあります。その方の朗読が素晴らしかった!

000613-1
原田道子さん  付添いの方  福角幸子さん

 写真の一番右の福角さんが『カイロスの風』から何篇かを朗読しましたが、作品の内容を充分理解していて、感情の起伏の使い方もうまく、思わず惹き込まれてしまいました。言語障害を感じさせる部分もあったんですが、それ以上に彼女の心情が伝わってきました。これは健常者、障害者という区別ではなく、詩をいかに理解しているか、という問題だと思います。
 「かあさんのイクサ」という作品があります。亡くなった母上を詠った作品ですが、この朗読を聞いたときは思わず涙が出そうになりました。あわててカメラの接眼レンズに眼を着けて、さとられないようにしたほどです(^^;;

000613-2
朗読に聞き入る聴衆

 女性の何人かは目頭を押さえていました。無理もないと思いました。それほど彼女の朗読は素晴らしかった。生まれて初めての感動、と言っても言い過ぎではないと思っています。失礼ながら、その後に朗読した原田さんご本人より数段上でした(ゴメンm(_ _)m)。
 朗読とは何か、とつくづく考えさせられましたね。自作詩朗読というのは私は嫌いで、自分でもあまりやりません。朗読するということは大変なことで、まず発声練習からやらなければなりません。場合によっては、自作詩なんだからプロをも寄せ付けない、というぐらいの気合がないとやれるもんじゃありません。それを、練習もしないで簡単に済まそうという風潮があるようで、憤りさえ覚えているんです。
 そういう思いがありますから、福角さんの朗読には特に感激したんです。言語障害があって、それでも感動的な朗読ができるというのは、並大抵な努力で済むはずがありません。健常な詩人の皆さん、もう少し考えませんか…。


詩誌『花』18号
hana 18
2000.5.25 埼玉県八潮市
呉美代氏発行 700円

 流れの中で/佐藤精一

ただいま何時かと
時計の針に目を止める
秒針が一目盛り一目盛り刻んでいる
時計は正常に動いている
脈を計る
脈拍が一目盛り一目盛り打っている
にんげんは正常に生きている

時刻を知りたいのは
今の位置と向き合うため
空白が許されぬ
歳月の流れに
いかに棹させばよろしいか

ときに
針の指示が狂ってくる
電池の力が衰えてきた
脈が不整になる
心臓の働きが鈍くなってきた
電池を取り替えよう
心臓に活力を与えたい

止まったまま
放置すれば
腐蝕が始まる

 この作品を拝見して、時計はアナログがいいなと改めて思いました。「空白が許されぬ/歳月の流れに」というフレーズには連続するアナログの特徴が出ています。デジタルですと瞬間的には空白が存在しますからね。脈と時計との接点はやはりアナログですね。デジタルではこうはいきません。そしてアナログは、いいかげんでも許されます。時計の針を見て、だいたいの時間を知るといういいかげんさです。そういうものが時計にも求められてきて、アナログがいいなとなる次第です。
 3連目もいいですね。本当にこれからは「電池を取り替え」ように「心臓に活力を与え」るような時代になると思います。そして最終連は「腐蝕」。電池も心臓もと結びつけるところは心憎いほどです。おもしろい作品に出会いました。


詩誌『青い階段』65号
aoi kaidan 65
2000.5.20 横浜市西区
浅野章子氏発行 500円

 鳥影/森口祥子

障子に鳥影が映った
今日は何かしらいいことがありそうな予感

障子を開けると
半分削られたむこうの丘には
辛夷の木が真白な花をいっぱいにつけている
空はあくまでも青い

小さな庭にも小さな木があって
紅い椿が今年はじめて二つの花をもった
咲ききる前に黄色の花芯が
無残に喰いちぎられるのを
嘆くのはよそう
林を追われた鳥は
こんなところで生きるしかないのだ
頬白かも知れない
鵯かも知れないなんて
犯人探しをするのはよそう
市街地に共に生きるわたしたちだから

木々の花芽にそれぞれの色が
見えてくるのは嬉しい
鳥たちが庭にくるのも
また嬉しい

何かしら動いているのは
生きているしるし

 心やさしい作品だなと思います。まず第1連でそれを感じます。第3連もそう思いますね。「犯人探しをするのはよそう」という発想も好みです。そして何より、最終連に作者の顔が見えてくるように思います。動物への愛着なしには「何かしら動いているのは/生きているしるし」というフレーズは出てこないのではないでしょうか。
 たしか作者はお医者さんだったと思います。そういう目でこの最終連を見ると、実はドキリとするのです。「生きているしるし」はそうやって見るんだろうな、なんてね(^^;; 変な読み方ですみません。


個人詩誌『粋青』21号
suisei 21
2000.5 大阪府岸和田市
後山光行氏発行 非売品

 ときのせせらぎ

時の流れる速さに
時のせせらぎを聞く
いつからかこころもち響きが弱いのは
おおきな建造物のためだろうか
ここちよく
音を響かせる時の存在
青空を流れる
白い雲の輝きに似て
今年も
きまった季節に
花を咲かせる自然
ここにも時のせせらぎ

 作品の読み方としてはルール違反なんですが、この作品に関連していると思われる絵をどうしても意識してしまいます。この作品は見開き左の頁に載っており、右には「於シンガポール 1995年6月」と書かれた水彩画があります。シンガポールの高層ビル群を描いた作品です。「いつからかこころもち響きが弱いのは/おおきな建造物のためだろうか」というフレーズは、この高層ビル群を指すのだろうと思いながら拝見しました。
 それはそれとして、時と音の組み合わせというのは感覚的でおもしろいですね。後山さんにはそういった普通とはちょっと違った感覚があるようです。言語感覚と言ってもいいのでしょうが、皮膚感覚に近いようなものだろうと思います。「時のせせらぎ」とは言い得て妙な言葉ですね。


沼津の文化を語る会会報『沼声』240号
syosei 240
2000.6.1 静岡県沼津市
望月良夫氏発行 年間購読費・5000円(送料共)

 望月さんがご卒業なさった旧制新潟高等学校の創立80周年記念号として、野坂昭如氏をはじめ39名の方が思い出を寄せています。編集後記で望月さんもそのことに触れ、教授陣のお名前をあげていますが、校長を含め15名のお名前が見えます。驚いたのは15名が40名のクラスに対しての教授陣だということです。ひとりの教授が3人以下の学生を受け持っている計算になり、ほとんど個人教授ですね。『沼声』を毎回拝見していますと、旧制新潟高等学校出身の方は優秀な人材が多いように思いましたが、それも判りますね。さぞやシゴカれたことだろうと思います。



 
   [ トップページ ]  [ 6月の部屋へ戻る ]