きょうはこんな日でした【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「ムラサメモンガラ」 |
2000.6.20(火)
東京・大森の関連会社で会議があり、出張してきました。大森にはご存じ、Niftyの本社ビルがあり、そこのテナントで昼食を済ませました。確か蕎麦を食べたと思いましたが(この日記、7/4に書いてます(^^;;)、値段の割にはナカナカなものでしたよ。店の名前も忘れてしまいましたけど、1階で和食はそこしかないのでお判りになると思います。で、会議、真面目にやりました。
それはそうとして私事になりますが、本日は生母の命日。指折り数えてみたら、没後もう40年なんですね。おふくろの歳をとっくに越えている自分に気づきました。長生きすることがいいことかどうか判りませんが、少なくとも生母よりは生きてしまったことに感慨はあります。あとは、記憶の中で聖母のようなおふくろを越えられるかどうかでしょうね。
○詩誌『叢生』108号 |
2000.6.1 大阪府豊中市 叢生詩社・島田陽子氏発行 400円 |
長田/佐山
啓
1 長田
人生につまずいた人
長田へいらっしゃい
長田には地場産業の
ケミカルシューズがあります
足取り軽く
山のほうにも
上っていらっしゃい
新緑を背にして
眩い女の人が ときおり
坂道を降りてきます
2 長田の住民
仕事帰りの男や女を満載したバスが
ひっきりなしに上っていく町
長田の北部
押し合いへしあいしているこの町にも
張り替えたばかりの障子のような
男
がいて
天をも突き破る意志の
女
がいます
「同人住所録」を見ますと、佐山さんのお住まいは神戸市長田区になっていました。1995年の阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた地区です。それを脳裏に刻んで拝見していましたら、「張り替えたばかりの障子のような」という表現に出会って、うれしくなりました。今はそう言えるほど復興したんですね。
この作品が仮に震災前に書かれたとしたら「張り替えたばかりの障子のような」というフレーズは弱いものでしょうし、場合によっては意味を成さないかもしれません。震災直後でも無理でしょうね。震災から5年経った今だから、私にインパクトを与えたんだと思います。作品と時代、という観点を考えさせられました。
○詩誌『軸』66号 |
1999.11.15 大阪市中央区 大阪詩人会議発行 500円 |
ゴムまり ----世界の子どもたちの写真展で/瀬野とし
あんなに幼いのに
あんなに細いからだで
遠くから水を運ぶ子ども
売り物のゴザを編む子ども
地雷原にかこまれて
いちにち いちにちを 生きる子ども
------ おおきくなったら
ときかれて
------ 生きていたい
と答える子ども
<ゴムまりは 贈り物の中に入れないでください>
もらった 救援お願いのちらしに
書かれていた
<まりを追いかけて
地雷原に 踏み込んではいけないから>
わたしの胸に よみがえる あかいゴムまり
まりといっしょに
こころもおおきくはずんだ
まりを追いかけていって
めずらしい花に 出会った ------
おとなたちの残した
地雷にかこまれていても
きょう生きている よろこびを
瞳に輝かせて
笑顔をみせている 子どもたち
ゴムまりを
この子たちに
手渡せる日が
くるだろうか………
2連目、3連目に驚きました。なんとも言いようのない気持ちにさせられます。「与えられた運命を生きよ」というのが私の心情ですが、その前提には理不尽な死に方をしないことがあると思っています。この子たちが地雷で死んだら、まったく理不尽な死になり、とうてい許容できるものではありません。
4連目の「あかいゴムまり」の設定がうまいですね。作者自身の問題として捉えるには、この連は欠かせません。そこから私たちにも自分の問題として突きつけられることになるのが、感覚として理解できるようになります。特に「めずらしい花に 出会った
------」というフレーズは、地雷に置き換えることができて、緊張感があります。
この詩誌は6/10に大阪で開催された日本詩人クラブ関西大会で、原圭治さんよりいただきました。初めて拝見しましたが、力作の多い詩誌でした。
○詩の雑誌『鮫』82号 |
2000.6.10 東京都千代田区 鮫の会・芳賀章内氏発行 500円 |
死/真尾倍弘
いったい何を考えているんですか
現代詩のことです
現代詩っておもしろいですか
おもしろくなんかありません
では何故書くんですか
現代詩だからです
そういうものですか
そういうものです
むかし父親に言われた
そんなことしていたらいまにお湯も呑めなくなるぞ
そうでした
お湯をわかすのには
電気や薪が必要でしたね
現代詩を求めて行くと
竹林が輝いていた
一本一本の竹が光っていた
凄味があった
何処かで見た記憶があったが
思い出せない
猫などの動物は
死を予知すると
身を隠すというが
人間にはできないことです
呼吸不全の苦しさは
目茶と苦茶で
、、、、、
死に到るころりん丸が欲しい
それが私の現代詩です
1連目はまるで禅問答のようで、おもしろいですね。「そういうものです」というフレーズには納得させられます。で、ちょっと視点を変えて「現代詩」を「仕事」にしても、ぴったり当てはまります。そして2連目を「仕事」=「儲け主義」と変えると意味深長です。4連目に当てはめるのはちょっと苦しいですけどね。最終連はちょっと壮絶な感じがしますが、それもよく理解できるつもりです。
原田道子さんが「女性詩の周辺」というエッセイを連載していまして、今回は茨木のり子さんを取り上げています。ちょっとキツイ見方かもしれませんが、いい視点だと思いましたね。
○鬼の会会報『鬼』338号 |
2000.7.1 奈良県奈良市 鬼仙洞盧山・中村光行氏発行 非売品 |
愛犬の洗い方
犬は自分の毛がぬれると、本能として水を飛ばそうと思って身体を振るわせる。ブルンブルンと、振るわせるのだ。だから、飼い犬を洗うときには、飛沫をかぶらぬように用心しなければならなぬ。そのためには、絶対に犬を洗っている間は、身体から手をはなさぬことである。どうしても、手をはなさねばならぬときには、犬の身体にタオルを掛けておけけば、じっと大人しくしているから安心だ。
珍しく、犬の話が出てきましたね。鬼ばかりではなく、犬についても深い見識をお持ちとは恐れ入りました。「犬を洗っている間は、身体から手をはなさぬこと」というのは知りませんでしたが、納得できます。当家では飼い犬のお風呂は私の係になっています。文字通り一緒にお風呂に入ります。その昔は嫌がっていたんですが、最近では慣れたようで私が風呂場に行くとソワソワしています。そして二人(!)一緒のお湯にドボン。うれしそうに肩まで浸かっています。
女性と一緒にお風呂に入ることもなくなり、娘からも拒否されて、我家では犬だけが一緒に入ってくれます。ちなみにメスです。
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