ょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画「ムラサメモンガラ」




2000.6.24(土)

  同人誌『山脈』の例会を横浜で行いました。野毛にある「今福」という北海道料理店です。気さくなマスターとおかみさんがやっている店です。私がベイスターズのファンになったのは、ここのマスターの影響によります。ちなみに「野球ファン」ではありません。「横浜ベイスターズファン」です。
 今日の例会は最高でした。今年に入ってから例会日はイベントがめじろ押しで、正直なところちょっと疲れました。ところが今日は何もないフツーの例会、うれしかったですね。司会も裏方も無し! ひたすら呑みましたよ(^^;; あんまりうれしすぎて、デジカメを持って行くのを忘れました(^^;;;;;;
 で、今日は写真は無し。ごめんなさい m(_ _)m。


個人詩誌『パープル』16号
purple 16
2000.7.16 川崎市宮前区
高村昌憲氏発行 非売品 

 祭りの構図/高村昌憲

  十二

破壊する知恵から 保存する知恵へ
造る仕事から 育てる仕事へ
単純化の科学の肌へ人間の時間を注入せよ
ギフチョウが翔ぶ美しい古里の時間を封印せよ

千年に一度の時間の中で再考しよう
千年後にも開催出来る祭りにしよう
千年後にもカスミザクラは立っていて欲しい
千年後にもサギソウは咲いていて欲しい

 愛知万博の会場として狙われた海上(かいしょ)の森をうたった作品で、一から十六までの構成のうち、十二を紹介しました。ご覧のようにすべて四行定型詩になっています。定型詩の必要性については評論「何故現代詩は危機なのか」でも取り上げられていますが、きちんと紹介できるほど理解していませんので、ここでは避けます。
 この「十二」を紹介する理由は「造る仕事から 育てる仕事へ」というフレーズにあります。ここで私はハッとしたんです。自分の仕事を省みて、です。化学工場の技術屋というのが私の生業ですから、まさに「造る仕事」です。それにあまり疑問は持っていませんでしたが、「育てる仕事」と書かれると唸ってしまいました。頭の中では「造る仕事」も大事、「育てる仕事」も大事と瞬間的に思ったんですが、さて、では私にとって「育てる仕事」とは何だろう?
 自分が関係した製品をお客様に使っていただく、アフターケアをする、などが「育てる仕事」とも言えますが、ちょっと違う。作者の趣旨はもちろん違います。しかし、言わんとしていることはよく理解できるつもり。少し考えみたいと思います。ともかく私の考えていなかった視点を与えてくれて、感謝しています。


詩と批評『玄』49号
gen 49
2000.5.13 千葉県東金市
玄の会・高安義郎氏発行 1000円

 点滴/野村 俊

お医者さんが枕元に点滴の瓶を逆さまにして釣り下げた
ビニールの透明な管を通って液が下がってくるのだろう
ビニールの管の先は針になってぼくに突き刺さっている
中間のへんてこなガラスの容器の中で
しずくがぽたりぽたりと落ちている

しずくは再びビニールの管を通ってぼくの体の中に入る
窓の外は欲と邪な謀(はかりごと)が
渦を巻いてぼくを病気にした町だ
その汚れた町が点滴の瓶に逆さまに映っている
点滴のしずくのひとつひとつにも
汚れた町が入っているように映っている

なんということだ
ぼくの体の中に汚れた町がたくさん入ってくる
だまし、裏切り、苛め、蔑みして
ゴミのようにぼくを扱った奴らの住む町が
点滴の液の滴りに映って
ぽとり、ぽとりとぼくの体に入ってくる
ぼくはそのことの不条理を懸命に訴えた
お医者さんは冷たく笑って行ってしまった

秋の夕焼けに沈んでいこうとしている町に
濁った色の灯火が入りはじめた
沈んだ気持ちでぼくはこの治療の意味を考えた
もしかしたらこれはぼくに必要な治療なのかも知れない
この町で生きていくために
嘘と欺瞞と虚飾に彩られた
腐葉土のような温かさしかない町に暮らすために
免疫でぼくの体を満たしてしまうのだ
そうしなければ
ぼくの病気は治らないのかも知れない

すっかり点滴の液のすべてがぼくの体の中に溶け込んだ
するとぼくの体は熱くなり
憎悪のエネルギーが湧いてきた
ぼくはヘッドの中でボクシングのイメージ・トレーニング
を始めた
仮想の敵は現実の人物たちであった
あいつも、あいつも、あいつも…
ぼくはたまらなく寂しかった

すぐに看護婦さんが来て別の瓶を替わりに吊るしていった
するとなんという安らかさだろう
その瓶には看護婦さんのやさしい笑顔が映っていた

 2連目、3連目に惹かれて読み進みました。そして4連目で「免疫でぼくの体を満たしてしまうのだ」という発想がおもしろく、最終連でホッとしました。発想のユニークさが邪魔にならず、逆に全体の品位を高めているように思います。発想がユニークで品位がある、というのは意外に少ないのではないかと思いますので、そういう意味でもいい作品と言えるでしょうね。


高安義郎氏散文詩「リーフノベル集」
『逢魔が時』     
oumaga toki
1999.7.28 東京都千代田区 五月書房刊 2000円+税

 年4回発行の病院の通信誌に、1頁の読み物を掲載したのが始まりだそうです。原稿用紙でちょうど4枚分。通信誌に引き続いて千葉日報の日曜版に隔週で載せるようになったそうです。それらの中から57編を選んでの単行本です。「リーフノベル」とは「木の葉語り」をもじったそうですが、いいネーミングですね。
 原稿用紙4枚というのは、散文詩として読めるギリギリのところかもしれません。読んでいて時々、不思議な感覚にとらわれました。散文を読む頭と、詩を読む頭が交互に訪れて、飽きさせませんでした。日本の膨大な本の中でも、ちょっと味わえない作品集だと思います。
 「贖罪の冬山」「ひたすら東へ」「マニュアル病」「三郎の壁画」などなど、お薦めしたい作品が目白押しです。ご一読をお薦めします。


個人詩誌『色相環』6号
shikisokan 6
2000.6.25 神奈川県小田原市
斎藤央氏発行 200円

 その日

そのひは
しずかにおとずれるといい

ふかいねむりにおちていくように
わたしはふたたびさかなにかえる
とおくなるいしきのむこうで
かすかにみずおとがする

とびらをあけると
ししゃたちのよぶこえがする
もえつきていくほしのように
みえないちからにみちびかれて
さいごのひかりをはなちながら
わたしはふゆうする

わたしのからだから
みずはゆるやかにひいていくだろう
きこえてくるみずおとは
ははのようすいのきおくのなかから
たちのぼるようだ

わたしにはわたしがみえなくなる
からだがからだでなくなる
このよにつなぎとめられていた
おもさをぬぎすてると
たましいはわたしをはなれ
うちゅうのほうせきばこのなかに
まぎれてしまう

 自分が死ぬ日のことをうたっていますが、平仮名が効果的ですね。一字一字を読んでいくと、自分の生きてきた軌跡を拾っているようで味わいがあります。これが意味を持つ漢字だったらダメですね。表音するだけの平仮名だから、自分の頭の中で意味と漢字を組みたてるという作業が必要になり、それが作品を読ませる原動力になっているんだろうと思います。
 最終連の「このよにつなぎとめられていた/おもさをぬぎすてると」というフレーズも斬新な視点で、なかなかのものだと思います。『色相環』は拝見するたびに成長しているようで、発行を待ち望んでいる詩誌のひとつです。


詩誌『梢』23号
kozue 23
2000.6.20 東京都保谷市
宮崎由紀氏発行 300円

 追い越されていく/山岡和範

駅を降りてわが家に向かって歩くとき
ぼくは人びとに追い越される
やがて畑の中の暗闇になると
若い人だけでなく
歳をとったせいか
かなりの年齢の女の人にも追い越される
ぼくの横を勢いよく追い越した
ミニスカートの女性
長い足に目をうばわれるが
白い足は見るみる遠ざかり
お茶の木のある道を
靴音を残して曲がっていった

 これは私にも覚えがあります。同じような作品を作ったこともありますので、思わず惹かれてしまいました。「長い足に目をうばわれるが」はまったくその通りで、今でも目を奪われますね。中2の娘も背が高いので、わが子ながら長い足に驚いたりします。
 作者の年齢は判りませんが、私は50を過ぎてちょっと変わりました。今までは長い足に羨望していただけでしたが、彼女たちが新しい命を育んでいくんだと思うようになり、元気な子を産んでくれと思うようになったのです。そうやって種が繋がっていくんだなと思います。ですから「追い越されていく」ことに、変な失望は無くなったわけです。そんなことを思い出させてくれる作品でした。



 
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