きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
nasu
新井克彦画「茄子」




2000.8.1(火)

 8/2〜6、銀座のステージ21ギャラリーという所で第10回日本詩人クラブ詩書画展というのが開催されます。50名ほどの会員が詩と書、絵画を組み合わせた作品を展示するものです。従来、私はこういう展示には関心がなく、出品したことが無かったんですが、今年は理事ということで出品を約束させられました。で、今日は作品の搬入日で、のこのこ行ってきましたよ。
 私の作品には「走査型電子顕微鏡による樹木への考察」というタイトルをつけました。木片を金蒸着させて電子顕微鏡で50倍・100倍・1000倍で写真を撮り、それに詩をつけたという代物です。はっきり言って他の皆さんの作品から比べれば貧弱ですね。ただ、自分で電子顕微鏡で写真を撮って、それに詩をつけられる者は、おそらく日本でも世界中でもそう多くはなかろう、という自負だけの作品です。まあ、良かったら見てください、、、って言ってもこれを書いてるのは8/11で、もう終わっちゃいました(^^;;


芳賀稔幸氏詩集『たゆたう』
tayutau
2000.7.15 東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊 2000円+税

 キッチンヤドカリくん

わきあがる子供たちの歓声と
ユーモラスな闖入者へ向けた大人たちの眼差しのなか
キッチン洗剤のキャップを背負ったヤドカリが
磯辺をコロコロあるいていく

目立つ風体のいきさつについて
キミにとやかく言うつもりなぞ、もうとうない

キャップがキミの器官の一部ではないのだし
人間が棄てた屑をリサイクルしているだけなのだから当然だ

けれども向こうの浜辺を
コロコロあるいているかも知れない黄や白や緑たちが
近い将来に
ヤドカリとは呼んでもらえずに
花王、とかライオンとか呼ばれたりするかも知れない行く末が
どうしても気掛かりでならない

かつて、自然界にはなかった物質を楯にして
そこに宿る癖を覚えてしまった日から
それを進化と信じ込んでしまっている思いちがいに
誰もがいまだ気づけない
それが不安で仕方がないのだ

 おもしろうてやがて悲しき、ですね。1連目は思わず笑ってしまいますけど、2連目3連目と読み進むうちに笑った自分を恥ずかしく思うようになってくる。そして最終連で、自分の底の浅さを感じてしまう、というような思いにさせられます。素材、構成ともによく計算されていると言っていいんじゃないでしょうか。
 私事で恐縮ですが化学工場に勤めています。自分が担当している製品は再生が利かないのですが、それ以外の大部分は幸いなことにリサイクルされています。しかし「自然界にはなかった物質」を作っていることには間違いありません。「進化と信じ込んでしまっている思いちがい」だけは避けようと思います。


倉持三郎氏詩集『離陸』
ririku
1977.8.10 東京都豊島区
国文社刊 1800円

 合評会

生まれたばかりの小鳥を
まわりからかこんで
わしのようなくちばしで
つっついている

食べるのに値しない
という顔をしているものもいる

テーブルの上におかれた
ピクピク動く心臓

腹のなかは
砂のような手でなでられ
鉄の手でなでられ
はらわたを
さらけ出して
うつむいて坐っている

 ちょっと珍しい素材なので紹介します。同人雑誌を出すたびに合評会をやるのが普通ですが、会の状況をよく捉えていますね。私も「わしのようなくちばしで/つっつい」た頃を思い出しました。詩を始めたばかりの人をやっつけるというのは、気分のいいもんなんです。日頃のストレスを発散していたのかもしれません。批評をやっていると最終的には相手の生き方にまで踏み込んで、そこまで言ってしまった自分に驚いて興奮したことを覚えています。
 しかし、そこからは何も生まれてきませんでしたね。場合によっては生涯の友を無くしていたのかもしれません。それに気付いて自分のために相手を批評するのはやめました。相手が成長してくれることだけを願ってしゃべるようにしたんです。まあ、それも不遜ですけどね。合評会というのは何度やっても緊張するものです。


倉持三郎氏著『イギリスの詩・日本の詩』
詩論・エッセイ文庫10
igirisu no shi nihon no shi
1997.1.20 東京都新宿区 土曜美術社出版販売刊 1300円

 詩論・エッセイ集ですから紹介し出すとキリがないんですが「発見と表現----ポエジーとは何か----」というエッセイの次の一節を紹介します。
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  昼寝の足のうらが見えてゐる訪ふ 尾崎放哉
 ポエジー(詩的要素というほどの意味で使う)ということをあれこれと考えているとこういう一句が浮かんで来る。この句は、果して詩に入るであろうか。文学作品に入るであろうか。おそらく、ぎりぎりのところでこの一行は詩となっているであろう。そしてこの一行を詩にしているものがあるとすれば、それがポエジーであろう。
 この場合、何がポエジーなのであろうか。昼寝、足の裏、訪ふ、ひとつひとつ切り離してみると、日常茶飯事のことである。さらに、昼寝、足の裏、などは、日常語のうちでも、もっとも美的世界とは離れているものである。「花」、「若葉」、「黒髪」というような言葉は、始めから美と結びついている。ポエジーをともなっている。
 それにひきかえ、「昼寝」や「足のうら」は、日常生活では美的な連想をともなわない。ところが、この句のように「足のうら」を表現されてみると、一瞬、おやと思い、意外な驚きを呼び起こされる。足という、いつも上からしか見ていないものを裏から見るという視点のあたらしさ。詩人ならずとも足の裏を見ることはあり、それについてある感情を持つことはあるかも知れないが、それを表現する衝動を持つまでには至らない。詩人には、足の裏が、知人のこれまで知らなかった生涯を表わしているように見えた。知人の別の表情に接するとともに、足の裏を見せて安心して寝ていることから、知人の性格や生活の一端を垣間見たのである。要するに詩人は意外な発見をし、驚きをおぼえているのである。この詩のポエジーの内容は以上のようなものであり、このポエジーによってこの一行は詩としての存在を主張している。
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 ちょっと引用が長くなりましたが、切れるところがない、いい文章ですので全文載せました。なるほどなと思います。放哉は私も好きで小豆島まで行ったんですが、正直なところどこがいいのか判らない句がたくさんありました。この句もそんなひとつだったんです。それをこのようにすっきりと説明されると納得しますね。自分のポエジーの無さも実感します。こればっかりは勉強してもしょうがなくて、感性を磨くしかありません。はて、どうやって?


倉持三郎氏詩集『木』
ki
1997.3.1 東京都豊島区
国文社刊 2500円

 ほこり

歓声を上げて
飛び立つ、
朝の斜めの光のなかに。
ちいさな天使たち。
白いつばさをまぶしく光らせながら。

部屋の死んだ空気のなかで
生命をもつただひとつのもの。

なんと敏捷なのだろう、
つかもうとする指のあいだをすりぬけていく。
身軽に空中をとびまわる、
滑走していく、
追われるのを楽しむように。
幼児の悲鳴をあげて。

つばさで光をはねとばし、
ひとしきり光とたわむれ、
空中を気ままにあそんだあとで
またもとの場所にもどってくる。
深い眠りの手にひかれて。

 ほこりについてこんなに書きこんだ作品を見たことがありません。書きこんだ≠ヌころか、ほこりについて書いた詩そのものが無いんじゃなかろうかと思います。何でも詩になる、とはよく言われることですが、ほこりが詩になるとは驚きました。それも「歓声を上げて/飛び立つ」ところから「深い眠りの手にひかれて」いくところまで描かれていて、すごいもんだと思います。現代詩のひとつの行きついた領域、と言っては言い過ぎになるでしょうか。



 
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