きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「茄子」 |
2000.8.24(木)
沼津の「柳家小満んとあそぶかい」というところに行ってきました。日本ペンクラブ会員の望月良夫さんが主宰する会で、小満ん師匠の落語を聞いて、その後は「越之寒梅」を呑みながら食事という趣向です。沼津の「磯庵」という料理屋の二階に10人ほどが集まるという、大変贅沢な会です。その割には安い会費で、膝つき合わせて落語を聞いて、好きなだけ「越之寒梅」を呑んで、一流の和食を食べて1万円というのですから、私のような貧乏人でも行けるという次第です。
落語は「山号寺号」と「宿屋の仇討」の二題。落語については詳しくないんですが、なかなか聞けない噺ではないかと思います。それに今回の二題で思ったんですが、笑いの特徴のひとつにリフレインがあるんですね。同じことを二度三度と繰り返すうちに、観客は、またあの話に戻るぞ、という期待があって、それが的中した時に笑いが起きます。観客の気持ちを掴む上でもいい手段だと思いましたね。詩にはちょっと使えないけど(^^;;
○個人詩誌『思い川』8号 |
2000.10.1
埼玉県鳩ケ谷市 桜庭英子氏発行 非売品 |
事件/桜庭英子
殺虫スプレーの威力を試そうと
となりの幼い息子は 朝からすでに
百匹近い蟻を殺ってしまった
狭い庭に
群集となって手をふるパンジーの花影から
清々とみどりに揺れる風知草の根元まで
葬列はつづく
大型連休だというのに
蟻たちは黙々と働いて
土のなかに
餌のように悲しみを蓄えている
日本中の報道機関すべてが
壊れてしまった少年のニュースに
乗っ取られてしまった日
理不尽な死と言うのでしょうか、蟻たちの意味のない死に憤りを覚えます。それを抑えたタッチで描いており、最終連で「事件」に結びつける手法はなかなかのものだと思います。おそらく5月の高速バス乗っ取り事件のことでしょうが、その表現も「大型連休」「少年のニュースに/乗っ取られてしまった日」と表わすだけで、直接言っていないところも好感が持てます。
こういう事件・事故を題材にするのは難しくて、下手をすると正義漢ぶってしまったり、単純な勧善懲悪で終わってしまうものですが、この作品は身近な「事件」と大きな「事件」を無理なく結びつけていて、成功していると思います。難しい素材に向き合う作者の姿勢には頭が下がる思いです。
○詩誌『蠻』123号 |
2000.8.20
埼玉県所沢市 秦健一郎氏発行 非売品 |
生きかたもわからないままに/藤倉一郎
生きかたもわからないままに
わたしは死を迎えるのか
六十年のあいだ
わたしはずっと思っていた
どう生きていけばよいのかと
少年の日あこがれ夢をみては
学問や科学や芸術や友情に
そっと近づいた
しかしどれもわたしの心を
とらえるものはなかった
集中することが出来なかったのだ
青年期になって
宗教も哲学も倫理も思想も
わたしの心を
虜にすることがなかった
これらの真理をつかむことが
出来なかったのだ
大人になって
文学も芸術も仕事も恋愛も
のめりこむことが出来なかった
すべてを忘れて
没頭するということが
なかったのだ
結局何もわたしの心を
とらえるものがなかった
何事にも熱中することがなかったのだ
こうしてわたしは
生涯目的も持たず
のらりくらりと生きている
とりかえしはつかない
どうすればよいというのか
もうすべては過去のことだ
わたしの生涯は
生きかたもわからないまま
終わろうというのだ
作者は60歳のようで、51歳の私は愕然としています。60歳になっても「生きかたもわからない」とは!私なんか迷うのは当たり前ですね。50歳を過ぎても自信が持てず、密かに悩んでいたんですが、ちょっと安心しました。いやいや、安心している場合ではないのでしょうが、先輩がそう思うなら私なんか悩むのは当たり前ですね。
作者は非常に正直な方だと思います。お医者さんのようですから、社会的には成功していると言えるのでしょうが、それに関わらず「生きかたもわからない」と言うには、ある意味では大変な勇気だと思うのです。年齢に関係なく、いつも自分に正直に生きること、そんなことを教わった気がします。
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