きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
nasu
新井克彦画「茄子」




2000.8.31(木)

 数週間前からジョン・アーヴイングの『オウエンのために祈りを』[上]を読んでいます。大好きな作家の、読んでみたいと10年前から思っていた作品なのに、なかなか終わりません。ちょこちょこ読むのは勿体ないので、長い時間がとれた時に読もうと思っているからでしょうね。きょうはヤクルト-横浜戦も雨で中止になって、あしたは休暇にしたのでじっくり読めそうです。
 10年前に確か「文学界」だったかな、第1章だけが翻訳されたことがあります。その時のタイトルは『オウエン・ミーニーのための祈り』だったと記憶しています。訳者も今回とは違っていると思います。
第2章以降を読みたくて、ずいぶん本屋さんに通って翻訳されているか調べましたが、空振りばっかりでした。原書で読もうかとも思いましたが、私の英語力では無理だろうなと諦めていたんですよ。去年の7月に出版されていたんですね。迂闊でした。
 [上]をそろそろ読み終わりますが、いい作品です。人間の描き方が素晴らしい。事件の置き方に無理がない。人間とは何だろうと、一段も二段も深く考えさせられる等々、アーヴィングファンならずとも納得できる作品だろうと思います。ご一読を薦めますよ。


一人詩誌『真昼の家』13号
mahiru no ie 13
2000.9.1 埼玉県三郷市 高田昭子氏発行 非売品

 母娘

肉親を選べない、というところからヒトの生涯ははじまっている。
思春期から青春期にかけてのわたしは、そこから離れることが「生
きること」と等しいことだったようだ。けれども娘を産んだ時、祖
父母以前から父母へと連なっている生命の連鎖のどこかに、わたし
は再び組込まれたのだ、と感じた。
幼い娘のおむつを取り替えながら、小さな小さな娘のそこには、次
の生命を産むための準備がもうすべて整えられていた。それは精巧
に美しく造られた雛形のようだった。その時の哀しみと不思議さを
忘れることはできない。そしてこの娘もすでにその連鎖に組込まれ
ているのだと、漠然とした不安を抱いていたことも……。
そして、この娘もまた肉親を選べなかったのだということも……。

 「その時の哀しみ」という言葉を見たとたん、この人は生まれながらの詩人だな、と思いました。人間の存在の哀しみを判らなければ、詩人である必要がないと思っています。それが判る人だけが詩を書けばいい、判らない人は無理をして詩を書く必要はない、とも思います。むしろ詩なんて書かない方がどれだけ楽に生きられることか。それは決して悪いことではありません。そういう生き方をしている人が人類の大部分ですし、それを批判する気は毛頭ありません。
 ただ、どういう訳か「その時の哀しみ」を知ってしまった。知ったからには書くしかありません。逃げることはできないのです。それが与えられた義務だと思います。
 高田さんはこの短い作品の中に本質的な詩人の要素を書き出していて、私も忘れがちななぜ詩を書くのか≠ニいう原点を久しぶりに思いだしました。肉親、人間の歴史など、この作品に含まれる重要なテーマについても解説しなければなりませんが、それはやめます。「その時の哀しみ」だけを取り出して充分でしょう。詩の根源を改めて考えさせられました。



 
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